本書も指摘するように、日本には本来の意味での保守主義の伝統がない。それはconservatismを新自由主義と訳す無知な人々に象徴されている。それは当然で、保守主義はもともとイギリスで貴族や地主のイデオロギーとして生まれたものだ。これがアメリカに移植されて独立革命の伝統を守る人々のイデオロギーになったが、両者はかなり違う。
本家イギリスの保守主義はバークのように伝統や慣習を大事にし、「基本的人権」や「国民主権」といった抽象的な概念を否定するのに対して、アメリカの保守主義は「自立した個人」を絶対化し、政府の経済活動への介入を拒否する。両者に共通しているのは、国家への懐疑である。
ところが日本の自称保守は、安倍晋三氏のように日銀が物価水準を操作する「設計主義」を主張し、靖国参拝などに傾斜する国家主義である。これは英米の保守とは違い、北一輝や岸信介に始まる国家社会主義の伝統だ。これに反対する左翼も「大きな政府」なので、日本には「小さな政府」の伝統がない。
ここからいえるのは、イギリス的な保守主義は、バークやハイエクが考えたような「自生的秩序」ではないということだ。「法の支配」は、政府と議会の闘いの中で国家権力の膨張に歯止めをかけるために人工的につくられた特殊なルールで、英米(およびその旧植民地)以外にはみられない。
日本には保守すべき伝統がないので、それを憲法改正で「取り戻す」こともできない。日本の「古層」は福島第一原発にみられるように、優秀でまじめな現場が営々と定型業務をこなし、国家は無能で何も決めない「空虚な中心」という構造だ。エネルギー問題から逃げて戦争ごっこに熱心な安倍首相は、保守主義ではなく単なる国粋主義である。
本書は保守主義の思想家6人のダイジェストとしては便利だが、それ以上でもそれ以下でもない。忙しいビジネスマンが2時間で保守主義を勉強するにはいいが、原著を読んだ人が本書を読む意味はない。