犬死にを避ける技術 - 『武士道』

池田 信夫
武士道ー 侍社会の文化と倫理
笠谷 和比古
エヌティティ出版
★★★☆☆



武士道という言葉は、いまだに誤解されている。三島由紀夫から『国家の品格』に至るまで、これを日本の伝統に仕立てて「グローバリズム」を批判する通俗的な話はあとを絶たないが、武士道という言葉は江戸時代にはほとんど使われていない。それは明治時代に、新渡戸稲造が西洋人むけに日本人の倫理を説明するために捏造した概念である。

本書も基本的にはこの事実を認めた上で、数少ない「武士道」という言葉の含まれるテキストをあげ、その共通点をさがす。そこに見られるのは、三島などの賞賛した「死の美学」とは逆の哲学だ。有名な『葉隠』の一節は、全体を引用すると次のようになっている。

武士道といふは、死ぬ事と見附けたり。[…]我人、生くる方が好きなり。多分好きの方に理が附くべし。若し図に外れて生きたらば、腰抜けなり。この境危うきなり。図に外れて死にたらば、犬死気違なり。恥にはならず。これが武道に丈夫なり。毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕果すべきなり。

この冒頭の部分が「国のために死ぬことが武士道だ」という形で戦争に利用されたが、山本常朝は「私も生きるほうが好きだ」といっている。不本意な生き方をするのは腰抜けだが、不本意に死ぬのは「犬死」だ。生への未練を捨てて死ぬ気になれば仕事も自由にできる、という実務的な心得を説いているのだ。

この他にも「武士道」という言葉の出てくる文献が列挙されているが、内容はバラバラで、武士道の概念が確立されていなかったことをうかがわせる。その共通点は、後代の誤解とは逆に、「忠義」とか「道理」などの絶対的な価値に殉じるのではなく、なるべく余計な戦いをしないで「犬死」を避ける技術である。それが生かされたために、幕末に列強と戦争をしないで明治維新という見事な「革命」が成功したのだ。

これは江戸幕府の御用学問だった儒学とは逆である。儒学では四書五経の教義に忠実であることが求められたが、武士道にはそういう教典がほとんどなく、プラグマティックに実証的に問題を処理する。それは逆にいうと一貫した原則がなく、機会主義的に事態に対応するため、大きな意思決定ができない。幕藩体制が完全に行き詰まってから、それを放棄するまでに100年以上かかった。

このような特徴は、現代の日本にも受け継がれている。日本の裁判所も警察も「正義」には関心がなく、なるべく和解や謝罪で「争いを避ける」ことを好む。それは武士道と逆のようにみえるが、実は武士道も戦いを抑止して犠牲を最小限にする技術だったのだ。

武士道の本来の姿を一次史料から解明する本書の姿勢はいいが、古文書を列挙して延々と引用するのは、学術書としても未整理で読みにくい。もう少しこなれた一般書を期待したい。