「給料1000万円以上、いやもっと高給者だけを対象に」とか、「対象職種を絞り込みが必要だ」という、産業競争力会議の提案をなし崩してしまおうという厚労省の反応は、働く者を守ろうしているとは、残念ながら私には映りません。
もし、本格的に時間管理以外の雇用管理体制を導入することになったら、新たな管理体制には「仕事の文書化」が必須であることを厚労省は嫌と云うほど知っています。
その必要な「仕事の文書」とはどんなものか、それを提言するお鉢が厚労省に回ってきてしまう。
それを避けたいからに過ぎない、のではありませんか?
残業代は、残業が生じない限り存在しない。
残業しているのに、残業代がもらえなければ、それは大問題です。
(これは、小学生でもわかります。)
今、問題になっているのは「残業をなくそう!」ということなので、残業が生じても払わなくてよいことにしよう、などということであるわけがないのです。
にもかかわらず、「残業代は支給しない」と錯覚させる「残業代ゼロ」と打ち上げるメディアの扇動的動きを調整しようとしないのは、産業競争力会議の提案を反故にし、「仕事の文書」とはどんなものかを決める仕事を厚労省が担わなくて済むから、ではありませんか?
ではなぜ、そのお鉢が回ってくることを厚労省は嫌がるのでしょうか。
文書化導入の過去:
1970年中頃、厚生省と合併前のまだ「労働省」であった頃、労働省は「仕事の文書化」に非常に意欲的な時がありました。
背景にあったのは、日本のGDPの急激な落ち込みでした。
為替の自由化とオイルショックの影響で、日本の高度経済成長(GDP)は急ブレーキ。遂に、実質経済成長率はマイナス。
その急減に落ち込んだ経済活力を回復させるため、労働生産性を上げるにはどうしたらよいかと、当時の労働省は、現在の雇用・能力開発機構の前身、雇用促進事業団の中に「職業研究所」なるものを設置し、米国はどうか、ドイツは、イギリスはどうかと各国の雇用制度や仕組みを随分、詳細に研究しました。
その時、「仕事を文書化したもの」が労働生産性を上げるのに非常に有効だと云うことがわかり、それを雇用のインフラとして導入することが日本も必要だとし、導入へ舵を切ったのです。
ところが、その動きは3~4年で姿を消してしまいました。
原因は、国内製品の好調な輸出でGDPは急回復したことで、誰も労働生産性が低いなどとは、云わなくなってしまったのです。
当時の人の話では、「労働生産性を上げるために、仕事を文書化しよう!」と労働省から号令が掛かり、「仕事の文書化」は労働省以外の中央官庁、経済界も巻き込んで、一斉に取り組んだと云います。
それほどの大々的な活動となったわけですから、「仕事の文書」を雇用のインフラ、「企業」と「人」との間に置かなくてはならないと旗を揚げた労働省の本気度はかなりのものだったと思います。
しかし、GDPが回復したら、誰も後ろにいなかった…。
「揚げた旗の降ろしようがなくなった…。」という、労働省の事情は容易に想像できます。つまり、「仕事の文書化」で、労働省は傷ついたのです。
いわば「仕事の文書化」は、厚労省の鬼門となっているのです。
そういう事情があれば、産業競争力会議で「仕事の文書化」ということを提言されても、到底、前向きな意見が出せるわけがありません。(…なんだか、同情すら湧いてきてしまいます。)
失敗の背景:
しかし、当時行った「仕事の文書化」には大きな弱点がありました。
その弱点とは「仕事の文書化」を、労働生産性を高めるものというふれ込みをしながら、労働生産性を測る評価に、賃金に繋げる工夫を一切していなかったことです。
その弱点を知りつつ、対策を打たずに、文書化の号令を発してしまったがために、書き出された内容は人様々。まるで日記のように、日々の活動を詳細に書く人もあれば、概要だけの事もあるという具合。
書き出させた文書には何の統一性もなく、とても、雇用の管理に使える様な文書ではなかったようです。
日本人の働き方は他国とは全く違う、ボトムアップ型です。
他国と違って、誰かの指示があって動くのではなく、一人ひとりが組織に何が必要かを考えたところから、いわば自発的に活動するところに特徴があります。
そういう働き方であるところに、「日々の活動を書き出しましょう」といって、書き出したものが、そのまま当時の「年功序列型賃金体系と繋がるわけがない」ことは、「職業研究所」で発行された報告書を眺めても最初から、担当省として認識出来ていたことは分かります。
今、やるべきこと:
しかし、そんなことは過去のこと。
今更、過去の政策の不備を取りざたにしたところで、日本社会には何のプラスにもなりません。
今、日本に大事なのは、人々が安心して働ける制度インフラを整えること。
それこそ、厚労省のやるべき事だと思います。
1000の「いいね」を取った冷泉氏もコラムの中で「働き方が問題」だと、述べています。
どうして日本の労働時間が長いのか? どうして日本の多くの産業で国際競争力が落ちたのか?
それは日本の「仕事のやり方」にあると考えられます。「家族より仕事が大切」とか「企業が共同体として精神的な帰属の対象になっている」といった印象論ではなく、もっと具体的な「仕事のやり方」の問題です。
ガラス張りの雇用の様子を紹介している安田佐和子氏も、「仕事の内容」が細かに分かると述べてます。
従業員側からみた会社格付サイトで、給与、福利厚生をはじめ仕事内容、社内の雰囲気などこと細かに分かります。
彼らは共に、米国社会の話をしています。
米国では「仕事は文書化」されているのが普通ですから、これらのコメントの前提には「何を仕事とすべきかを記した文書」が雇用関係にある上での意見だとなってきます。
今回の雇用改革で、社労士榊 裕葵氏が心配している「名ばかり管理職の合法化」を防ぐには、一つひとつの管理職という肩書きの仕事の内容が、本当に管理職に相応しいものかどうかを判断することが必要だといっています。
残業代ゼロ法案は、やはり「サービス残業奨励法案」だった
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みんな、一生懸命働いている。
それにもかかわらず、残業の中身がとやかく言われるのは、仕事の内容が不明瞭だからではありませんか?
勤務時間云々は、「会社はどういう働きを求めているか」との関係で決まることだと云うことは、今では多くの人々は気づいています。
そういう働き方が「いいね」と賛同している人々が多いのですから、厚労省が取るべき事は、そういう働き方を日本で実現するために必要な方法を編みだし、政府に提案することです。
厚労省は、すでに「職業研究所」で行った研究の結果、他国の文書化の考え方がそのまま日本に導入できるものはないということは分かったはず。
それが分かったのですから、文書化は無理だと諦めるのではなく、日本人の気づき力や改善力という資質を最大限、実際の業務に引き出せる働きの管理文書の形を考えればよいのです。
賃金とヒモ付いた内容であれば、ブラック企業の摘発だって容易でしょう。
するべきことは、今では明瞭になっています。
それを自力で編み出す時間がないのなら、一般公募すればよいではないですか。
このままでは、なんだか労働貴族の彼らに搾取され、それに気づかぬ労働者を見方につけた反対勢力にしか見えてきません。
時代は今、殆どの職場ではネット接続の環境が職場のベースにあり、誰でも在宅勤務ができるハードインフラの環境だけは整っています。
製造業ですら、国内にある産業は高度化しており、必ずしも時間管理が可能なものとはいえません。
整っていないのは、タイムカードに依存しない雇用管理の手法だけです。
(このままでは、そのうち労働行政を「雇用」と「労働安全」とに分け、雇用の部分は経済産業省と、労働安全部分は厚生省というように機能別再編成という案が上がってくるのではないかと、思ってしまいます。)
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厚労省さ~ん、過去のトラウマから抜けることが、日本の雇用を救います。 (^_^;
今回の場面で、産業競争力会議の提言をなし崩しにするのではなく、どんな積極的な案を出してくれるのかと企業も働く人々も皆、きっと期待していますよ。 (^^)/ (G)