安倍首相のスローガンは「日本を取り戻す」だった。彼の執着する靖国神社は、日本の伝統でも何でもない国家神道というでっち上げ宗教だが、彼の行動は見事に日本の伝統にそっている。
きのうの言論アリーナでも言ったように、福島第一原発の地下水のセシウム濃度は数Bq/kgであり、飲料水の環境基準もクリアしている。ほとんどの核種はALPSで除去できるが、トリチウムだけはできないため、薄めて流せない。しかし実はニューズウィークにも書いたように、トリチウムの排出は法的に規制されていない。その出すベータ線は水中で0.005mmしか届かないので、規制する理由がない。
なぜこうなっているのか現地で責任者にもきいたが、「規制はないが出せない」という。どうやら地元の漁協が反対しているらしいが、そんなものには何の法的拘束力もない。国が「環境基準以下の汚染水は排出してもいい」と指示すれば終わりだが、環境省は何もしない。安倍首相がこの問題に及び腰だから、その「空気」を読んでいるのだ。
これは近衛文麿と同じ、日本の無責任政治の伝統だ。(日本軍も東電も)当事者はおかしいと思っているのに言い出せない。何も知らない大衆やマスコミ(戦前も朝日新聞が急先鋒だった)は、「ゼロリスクにしろ」という強硬論に傾くので、選挙が恐い政治家はみんなそれに迎合する。それに乗った「みこし」である首相は、きれいごとしか言えなくなる。
これはJBpressにも書いたように、明治以来の日本の議会政治の「オール野党」の伝統だ。このように政治の中心に天皇という空白があるために誰も決めない無責任体制は、古くは平安時代以来の日本の伝統であり、安倍首相はその伝統を取り戻しているのだ。