「例え話」で自衛権法制を整備して防衛は出来るのか

北村 隆司

各党の自衛権論争を俯瞰して、何かの本に「日本人は肌で感じないと分からない国民だから、自由とか民主主義とか、観念的なもののためには死にません。ただ、敵が攻めてきたら、これは大変だと言って皆で国を守るでしょう」と言った高名な学者の言葉が引用されていた事を思い出しました。

普遍的で想定の難しい防衛問題、特に受動的な自衛権の行使問題までが具体事例(仮想を基にした例え話し)を基に論議を進める現実を目の当たりにしますと、この学者の観察の正しさが証明されたようで、残念に思えてなりません。


先の拙稿「日本の自衛権は『何を守るのか』?」で、先進立憲主義国家では、究極的に守るものは「自由」だと言う国民的合意が出来ていると書いたところ、「国家は国民の生命と財産を守るのが第一義で、自由とかのイデオロギーはその次だろう。馬鹿げてる」とか「尖閣を含めた領土だ」と言うご指摘を受けました。

成文憲法を持たなくとも「権利章典」の生誕地である事から「憲法の祖国」と呼ばれる英国や、世界最古の成文憲法を冠する米国のように、修正10条(米国版権利章典)を設けて権力を厳しく制限して、建国の理念である「自由」を守る事を第一義に考える国々と、建国の理念もなく、統治の基本を示しただけの日本国憲法が自由の「果」である「生命、財産、国土」を第一義だとする日本との制度的環境の違いを考えれば、「自由」を観念的だとして葬る事もやむを得ない事かも知れません。

何を守るかの論議はこの程度にして、自衛権行使の問題に話題を移します。

個別自衛権の行使は、各国が夫々の自己責任とリスクの下に発動すれば済む事ですが、集団的自衛権の行使は「双務的」関係にある相手がある事なので、そうは行きません。

先ず第一に日米安全保障条約を結んでいる米国ですが、その行使に当たっては、行政が圧倒的に強い日本と、厳しい三権分立制度で行政の力が制限されている米国との違いもよく理解しておく必要があります。

更に無視できない事は、「法治主義国家」の日本と「法の支配」の伝統を持つ米国の条約や法律の解釈法の違いです。

刻々と変る世界情勢の中にあって、被治者の権利或いは自由を保障する人権重視主義に立つ「法の支配」の米国と、情勢の変化や文言の陳腐化にお構いなく、条約の文言に拘る「法治主義国家」の日本の条約の解釈の違いは、場合によっては相互不信を呼ぶ程異なる危険な要素です。

余談になりますが、国際化が進むに従い落日一途の「法治主義」に気がついたのか、アジア安全保障会議(シャングリラ対話)に出席して基調講演をした安倍首相が、国内では口癖の「法治主義」と言う言葉を封じ込め、ロシアや中国を意識して「法の支配の順守」を強調するなど、国内と国際舞台で言葉を使い分けるしたたかさには感心しました。

処が、ここで見せた安倍首相の学習速度の速さは、集団的自衛権の行使の条件を詰める論議には全く発揮されず、小学生のような個別具体的な例(例え話)をベースに進められている事は、情けない限りです。

例えば、公明党が消極的だと言う :
▽海外にいる日本人などを輸送するアメリカ艦船の防護。
▽防御能力が十分でないアメリカの輸送艦や補給艦が武力攻撃を受けた際の防護。
▽日本の上空を横切り、アメリカに向かう弾道ミサイルの迎撃。
▽弾道ミサイル発射の警戒のため、防御能力が低下しているアメリカ艦船の防護。
等々の事例を、双務関係にあるアメリカが自分の立場に立って:
▽海外にいるアメリカ人などを輸送する日本艦船の防護。
▽防御能力が十分でない日本の輸送艦や補給艦が武力攻撃を受けた際の防護。
▽米国の上空を横切り、日本に向かう弾道ミサイルの迎撃。
▽弾道ミサイル発射の警戒のため、防御能力が低下している日本艦船の防護。

と読み替えて消極姿勢を示したら、日本ははどのように対処するのでしょう?

物事が想定どおりに行かない事は、2005年の流行語大賞に「想定外」が選ばれた事でも明らかです。

誰もが知るように、重大な有事や災害は想定できないから起るもので、「初めてのことだから」「前例がない」のが当たり前で、平時体制の法制をいくら糊塗しても対応できるものではありません。

従い、集団的自衛権の行使のような有事法制は、できることを規定するのではなく、最低限やってはいけない事を列記したネガティブリストを作る他ありません。

ところが、日本のネガテイブリストに依る有事法制設定論者の多くが保守派の人々で、権力の行き過ぎを警戒するリベラル派の支持が殆どないのが理解出来ません。

権力の行き過ぎを防ぐには、精査されたネガテイブリストを作成し、それでも防げなかった行き過ぎは、議会の承認が必要な予算の執行停止などで対処する事です。

政党政治の日本では、多数派政党のの横暴を抑えられないと言う意見もあると思いますが、有事法制の執行に拘る国会議決には、党議拘束を禁止すると言う法律を作る事も一案でしょう。

古来から紛争には合従連衡がつき物で、現に、内部に深い対立の要因を抱えた中国・ロシアの両国が接近姿勢を示すなど。世界の安全保障構造は激動の中になります。

激変する国家や民族、宗教間の争いは、紛争全てがグレーゾーンと言っても過言ではない程複雑で流動的なものばかりで、現在審議されているように事例別に色分け出来る性質のものではありません。

しかも、国際騒乱に対する介入の有無の決め手は、国際世論や当該国の「国益」になりつつあり、条約の有無や条文は口実に使われる程度にその地位を落としています。

9.11以降、国際的な自衛権の概念も組織的テロをその対象に組入れるなど激変しており、海岸沿いに新幹線やその他の重要インフラが集中している上に、東京湾や 首都圏の送電網を攻撃されれば大混乱を起こす日本の地政学的弱点への防衛策も論議せずに、細かな「事例集」に熱中する現状では、日本統治の「三種の神器」 ─「後手、後手」「想定外」「検討中」がなくなる事は期待できません。

条約や法律は如何に事細かに規定しても森羅万象を網羅する事は出来ません。

結局は人間の解釈が決めてになる以上、権力の行き過ぎを制限する「ネガテイブリスト」の選択に全力を挙げるべきで、事例集と言う「例え話」を基礎として集団自衛権行使の法制度を整備する愚だけは避けて欲しい物です。

2014年6月6日
北村隆司