日本に植民地化され、戦後は連合国の戦勝国グループに属して日本を裁くことができなかった韓国は自国の真の建国記念日がないことに強烈なコンプレックスを抱いている。慰安婦問題はその恨みを解放し、日本を批判できる貴重な問題となってきた。慰安婦問題は日本に対して「道徳的優位」を誇示できるテーマだからだ。「わが民族は日本に植民地化され、民族のアイデンティティを奪われたが、道徳性では日本人より高い」と感じることができるからだ。だから、世界に慰安婦像を建立し、日本人の蛮行を辱めるために腐心しているわけだ(黒田勝弘著「韓国人の歴史観」参考)。
他国を批判して自国民族の「道徳性」を誇示し、そのために世界的なキャンペーンを展開し、慰安婦像を建立するような国は韓国しかないだろう。国民総生産を比べるように、その道徳性を他国と比較して「わが国は道徳的に日本より高い」と誇示するという発想自体、少々幼児的だ。戦時中、一国の兵士が他国の女性を蹂躙したり、慰安婦のように扱ったというケースは残念ながらどこにでもあった。旧日本軍だけではなく、ベトナム戦争中の韓国兵士、最近では韓国で話題となっている米軍慰安婦問題など、例を挙げたらきりがない。韓国は旧日本軍の慰安婦問題を犯罪化するために「国家・軍の強制があった」という点に執着するが、当然だ。韓国女性が自主的、経済的理由から旧日本軍の慰安婦となったとすれば「道徳的優位」説は崩れてしまうからだ。
戦時中の旧日本軍の慰安婦問題を糾弾する韓国は本当に日本より「道徳的優位」だろうか。性犯罪統計をみると、韓国の性犯罪発生率は人口比で世界的に高く、日本をはるかに凌いでいる。「平和時の性犯罪を問題にしてはいない。戦時中の性犯罪だ」と強調するかもしれないが、戦時中という異常な環境下の性犯罪問題より、平和時での性犯罪問題こそ、その国民の道徳的レベルが分かるのではないか。
韓国の珍島沖で5月、旅客船「セウォル号」沈没事故が発生し、300人余りの命が亡くなった。犠牲者の中には修学旅行中の生徒たちが多かった。救援に当たるべき船長がわれ先に避難し、旅客を見捨てたことが明らかになると、韓国国民は激怒。船長ら4人の乗組員は殺人罪で起訴された。
韓国国民は事故後、意気消沈したといわれる。「わが国は3等国家だ」、「後進国だ」といった自嘲気味な意見が聞かれる一方、政府の事故への対応を批判する声が溢れた。ひょっとしたら、われわれも自分の命を救うため逃げた船長と同じではないか、という思いが湧いてきた国民がいたかもしれない。
日本に対して「道徳的優位」を誇ったとしてどのような意味があるだろうか。新約聖書「ヨハネによる福音書」8章には、姦淫の場で捕まった女に対し、イエスの「あなた方の中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」との言葉に、一人、一人と去り、最後は誰もいなくなったという話が記されている。韓国人は日本人の罪を見つけ、石を投げつける律法学者のような立場だ。「見よ、彼らは罪人だ」と世界にアピールしているのだ。
8月、韓国を訪問するローマ・カトリック教会のフランシスコ法王は旅客船沈没事故に対し、「韓国民すべてに深い哀悼を表す。若者に会いに行く訪韓を控え、多くの若い生命の犠牲を非常に残念に思う。韓国民がこの事故をきっかけに倫理的・霊的に生まれ変わることを望む」と強調したという。
韓国国民は何事に対しても「一番」が好きで、「強い」ことを願う。「それはそうありたい」といった強烈な願望の反映だろう。戦後70年目を迎えようとしている。イエスは「自分の弱さを誇ろう。私が弱い時にこそ、私は強いからである」(「コリント人への第2の手紙」第12章)と述べている。「道徳的優位」を誇ることを止めよう。
編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2014年7月1日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。