故小松内閣法制局長官は、共産党とマスコミの風評被害者

北村 隆司

共産党の小池議員に「番犬」呼ばわりされて憤慨し、喧嘩別れのまま逝去された小松前法制局長官の初七日があけた7月1日に、政府は集団的自衛権の行使を認める閣議決定をした。

改めて小松氏のご冥福を祈りたい。

かの英国首相チャーチルはブルドッグ宰相と呼ばれ、濱口雄幸首相は「ライオン宰相」、吉田茂は狸爺、クリスチャンで読書家としても知られた大平正芳首相は、その風貌や「あ~……う~……」と言う訥弁から「鈍牛」と呼ばれるなど、指導的な地位にある人が動物呼ばわりされる事は珍しくない。


人格攻撃の色彩の濃い小池発言で顰蹙を買うのは小池氏自身だとしても、少なくとも小池氏は選挙で選ばれた国民の代表であり、例え悪意があったとしても、この程度の悪口に堪えられないようでは、小松氏も民主主義の要請する法制局長官には相応しくない単なる官僚に過ぎなかったのは残念である。

番犬論争はさて置き、「内閣法制局長官の役割は憲法という大切なものを擁護すべき番人であるべきなのに、政権をかばうようなことをしたからだ」などと、「法制局=憲法の番人」と言う風評をまともに信じて小松氏を「番犬」呼ばわりする小池氏の無知振りは、「鴉の鳴き声(アホー)」発言としか言いようがない。

憲法は小池氏がお好きな第9条だけでなく、第81条も立派な一部であり、そこには「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」と明規している。

一方、内閣法制局設置法は「閣議に付される法律案、政令案及び条約案を審査し、これに意見を附し、及び所要の修正を加えて、内閣に上申する」事等を「所掌事務」と定めているように、法制局は純然たる諮問機関に過ぎない。

日本の内閣法制局は、米国司法省法律顧問局(通称 OLC) をお手本にして設置された組織である。

そのOLCも、すべての憲法上の問題について行政府に法的アドバイスを与える責任があるとされるが、行政府にはOLC に法的アドバイスを求めなければならない法的義務も、OLC の法的アドバイスに従う義務もない諮問機関である。

また、OLC が法的アドバイスを提供することができるのは、行政府内に対してのみであって、議会や司法、外国政府、私人等、行政府外の者に対する法的アドバイスは行っていない事も、内閣法制局と同様であるが、内閣法制局と大きく異なるのはOLC の意見作成過程に重層的なチェックアンドバランスが働く事である。

その一方、透明性に神経質な米国だが、OLC の法的意見は1. 機密での法的アドバイスを含む事。2. 意思決定過程の確保や他の行政機関とOLC との間の信頼関係を保持する事、3. 公表することが法の執行を妨げることもありうること等を理由に、原則として公開されていない。

この考えは、何の恐れも無く自由にアドバイス出来る事を目的に作られた、医者と患者、弁護士とその顧客との守秘義務原則を援用したものであろう。

官僚で構成される内閣法制局とは異なり、高度な独立性を有するエリート法律家で構成されるOLCのメンバーたちは、OLCの構成員である間は行政府の一員としての公務員であるという側面と、法律の専門家集団であるという側面のどちらを重視して意見を作成するかの狭間に置かれ、常に2つの決定モデルからの選択を迫られている。

第1のモデルが、「準司法モデル(quasi-judicial model)」と呼ばれるモデルで、裁判官と同様に、法解釈の領域に政治的・政策的考慮を持ち込まず、可能な限り客観的に法の意味を探求すべきであるとするモデルである。

このモデルは、OLC の法解釈機関としての評判を維持する事で将来、学者や裁判官になることを意図している者には重要な要素となりうる為、ややもすると行政府へのアドバイスと言う組織の目的を離れた非現実的な意見を助長する危険がある。

第2のモデルは、アドボケート(代弁者)モデルで、OLCと大統領を始めとする行政府の関係を、弁護士と依頼人との関係に近い関係として認識するモデルである。

このモデルの問題点は、OLC 自身の組織利益の追求のために行動する事が多くなりがちな上に、顧客にとって望ましいアドバイスを与えることは、自身のポストの維持や大統領や司法長官に対する影響力を保持し、出世を役立つ「ゴマすりコメント」を醸しだし易い点にある。

どちらのモデルがOLC のあるべき姿として望ましいかと言う問題について、ある学者は:
統治の各部門を制度的に見た場合、
1. 選挙を通じた民意によるコントロールを受けないこと、
2. 自身の判断を文書のかたちで公表し正当化することが求められていること、
3. 法的能力を少なくとも基準の一つとして選任されること。

等から、人権や権利の問題については、司法がよりよい憲法解釈を行うことができる制度的地位にある。

他方、国防問題などのいわゆる「政治的方針」の妥当性の判断では、行政府の方が制度的に優れており、国民の意思(政策問題)については、議会が制度的に優れていると言う意見を述べているが、「法治主義」を法律万能と誤解する日本には、大いに参考にすべき見解だと思う。

法曹一元制が確立している米国では、20~40人の卓越した法的能力を有する法律家から構成されたOLC のスタッフは、その職のプレステージは非常に高く、法的強制力が無くとも各行政機関がこぞって意見を求めて来るのに対し、未だに法曹一元化が実現していない日本の均質的な官僚間の法的論争には、米国のような高度な質的論争は望めない。

その、OLC でも米国伝統のチェックアンドバランスの努力を少しでも怠ると「低レベルで、極めて根拠薄弱」と酷評されたいわゆる「拷問メモ」のような事件も起き、そのメモの作成者は批判の嵐を浴びる事となる。

OLCであろうが、内閣法制局であろうが、解釈は人間が行うものであり、その責任は解釈者に属するのが普通である。

ところが、日本の内閣法制局の決定モデルは、旧ソ連や中国の「機関決定モデル」に近いプロセスで、組織だけが前面に出て個人の顔が見えない。

その典型が、「集団的自衛権は行使できない」という過去の「法制局の一義的解釈」が、どのような論議で誰が決めたのか判らないにも拘らず、国の置かれた環境の変化には関係なく変更できないと言うのでは、国民が新政策を求めて政権交代をさせる意味もなく、「独裁国家」の決定プロセスと同じ効果を持つ事になる。

日本が世界の常識に反して、何故このような習慣に染まったかと言えば、閣僚の席が派閥の利権を巡ったたらい回しになった結果、当事者能力のない閣僚が任命された為に、「内閣法制局」と言う何の資格もない官僚が、自分の解釈を最高裁の憲法判断のような形にしてマスコミに売り込み、この風評を信じた国民が「内閣法制局」を憲法の番人だと誤解した為である。

この風評を磐石にした重要な要素に、最高裁の機能不全と無責任がある。

その際たる例は、1951年当時の日本社会党が起こした自衛隊の前身である警察予備隊の違憲訴訟に対して、最高裁判所は警察予備隊の違憲性については一切触れずに訴えを却下し、逆にこのような裁判はいかなる裁判所も裁判権を有しないと言う判断を下した事にある。

常にドイツ的な大陸法解釈を採る最高裁が、この判決では奇妙な事に(都合良く?)憲法判断は具体的な訴訟の内容に基づいて行われるアメリカ型の付随的違憲審査制を採用した判決を下した。

しかしその米国でも最近は、法令の違憲性の主張の利益 を広く捉え、憲法秩序自体を保障する制度に近づいている。

共産党が本気なら、「番犬論争」のような低俗な論議はやめて、 米国のこの傾向を捕らえて自衛隊違憲訴訟を起こすのが本筋である。

こうして見て来ると、憲法が機能しなくなった日本の統治体制は事実上崩壊しており、その意味でも憲法改正は喫緊の課題である。
さもなければ、故小松長官の様に過去の法制局の一義的解釈を変更しようとする度に「番犬」呼ばわりされる恐れが去らない。

注:本稿の執筆には、鹿児島大学の横大道 聡准教授の論文「執行府の憲法解釈機関としてのOLC と内閣法制局 -動態的憲法秩序の一断面〔補訂版〕や、最近のOLC局長経験者で、その後巡回控訴審判事や大学教授、弁護士等として活躍しているTheodore B. Olson 、Douglas Kmiec 、Michael Luttig 、Walter Dellinger 、Jay S. Bybee 、Jack Goldsmith 、Steven G. Bradbury 、David J. Barron 各氏の論文、講演録などを参照させて頂いた。

2014年7月3日
北村 隆司