「祈る人」が直面する試練 --- 長谷川 良

アゴラ

イスラエルの3人の青年が拉致され、後日、死体で発見されたというニュースが報じられた。イスラム過激派組織ハマス側は関与を否定したが、イスラエル側は「ハマスの仕業」として報復を宣言した。その直後、今度は1人のパレスチナ人の青年の死体が見つかった。イスラエル側は「パレスチナ人青年殺害とは関係ない、ハマスの軍事拠点を中心に軍事攻撃をしたが、民間人を衝撃の対象としていない」と弁明したが、パレスチナ側は「イスラエル側の報復」と確信し、イスラエルへの批判を強めている。パレスチナ側とイスラエルの紛争はここにきて暴発する危険性を高めてきた。


ユダヤ人の3人の青年の死体発見ニュースが流れると、フランシスコ法王は「残虐で絶対に許されない犯罪だ」と強い批判を表明した。バチカン放送独語電子版は法王の批判発言をトップで報じている。青年殺害ニュースはバチカン、特にフランシスコ法王に大きな衝撃を与えたことは明らかだ。なぜならば、6月8日、フランシスコ法王がユダヤ教とイスラム教の3宗派代表を招き、中東の和平実現のために祈祷会を開催したばかりだからだ。

ローマ法王フランシスコ、ユダヤ教代表のイスラエルのペレス大統領、そしてイスラム教代表のパレスチナ自治政府アッバス議長の3人がバチカン内の庭園で中東和平実現のために祈ったニュースは世界に流された。解決の糸口がみえないイスラエルとパレスチナの中東問題が共同祈祷会を通じて、「ひょっとしたら突破できるのではないか」といった淡い期待があった。その和平への期待は失望になり、最悪の結果をもたらした。4人の青年が何者に殺害されたのか。イスラエルとパレスチナは相手の責任を追及し、報復を宣言しているのだ。

和平祈祷会を主催したフランシスコ法王は、4人の青年の殺害事件にショックを受け、「われわれの和平の祈祷は神には届かなかったのだろうか」、「神はなぜ、4人の青年の命を守れなかったか」といった呟きが飛び出したとしても批判されないだろう。

聖書には「真摯な祈りは必ず聞かれる」と記述されている。イエスは「真心の祈りは山をも動かす」と断言している。祈りで不治の病が治癒されたケースは聖書には多く記述されている。タルムードでもコーランにも表現は異なるが、神への真摯な祈りが如何にパワフルかが記されている。それではどうして4人は殺害されたのか。もちろん、「青年殺害事件と中東和平の祈祷会は直接関係はない。バチカンにとって少々、不都合な展開となっただけだ」という説明も可能だ。しかし、神を信じる人々は偶然を認めない。必ずそこには何らかの原因があったと考える。だから、関係者にとって、悲しみは一層深くなるわけだ。無神論者は「それ見ろ、神は存在しないのだ。祈っても何の意味もない」と冷笑するかもしれない。

「祈る人」なら知っていることだが、祈りは算数の計算のようにはいかない。5のエネルギー投入をしたから、それに相応する結果が期待できるというわけでもない。結果も即出る場合と時間が経過した後、忘れかかった頃に答えが戻ってくることがある。真摯で真剣な祈りであればあるほど、祈りの数式は複雑だ。今回の4人の青年殺害事件のように、祈った内容と逆の状況が生まれることもある。

イエスは絶えず祈りなさいといっている。現代人にとっては理解できない事かもしれないが、祈りはやはりパワフルな力を有している。4人の青年殺害事件はイスラエル人、パレスチナ人双方に悲しみを与えたが、それで和平への祈りを中断すれば、喜ぶ勢力がいることを忘れてはならない。世界には真摯な祈りを最も恐れている勢力が存在するからだ。


編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2014年7月6日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。