「無人島への名付け」に思うこと --- 長谷川 良

アゴラ

日本政府は8月1日、これまで名前がなかった無人島158島に名前をつけたことを発表した。政府は昨年6月、専門委員会を設置して呼称付けを進めてきたという。読売新聞電子版は同日「海洋進出を活発化させている中国を念頭に、国境離島の保全・管理を強化し、海洋権益の確保につなげる狙いがある」と解説している。


無人島の名前付けというニュースを聞いたとき、人類始祖アダムとエバの話を思い出した。創世記2章によれば神は創造した万物に対してアダムがどんな名前をつけるかを見られた、と記述されている。このことからアダムが最初に取り組んだ仕事は万物に名前を付けることだったことがわかる。「これはバラ、これは鳥」といった具合にだ。時間の経過とともに、単なる総称ではなく鳥にも個別の愛称ををつけていったのだろう。安倍政権が無人島に対して名前を付けていったと聞いたとき、名前を付けるという作業の意味について考えさせられた。

ヨハネによる福音書1章には「初めに言(ことば)があった。言は神とともにあった」という有名な個所がある。すなわち、全万物世界は神の言、ロゴスによって創造されたという意味だ。その創造物に対して、人類始祖が名前を付けていったわけだ。

無人島の158島の話に戻る。対象に名前をつけることはまず、その所有権を明確にすることだ。これは自分に属する。その名前はこれこれだ、という表明だ。安倍政権の今回の決定も第一に、その島々が日本に属するということを内外に明確に表明する目的があったはずだ。だから、中国が日本政府の決定に対して即、激しく抗議したわけだ。

名前を付けることはその所有権問題だけではない。名前を付けることで対象に対する情が湧いてくる。名前もない存在に対して誰も情が動かない。だから、名前を付けることは、その対象を愛によって主管することを宣言することにもなるわけだ。

世界基督教統一神霊協会(通称・統一協会)の創設者、文鮮明師は1970年代、米国の復興のために渡米し、「米国よ神に帰れ」というキャンぺーンを行った。多くの若者が文氏のメッセージに感動した。米国内の既成キリスト教会関係者が「アジアの小国出身の宣教師が何ををいうか」と批判した時、文氏は「アメリカはアメリカを誰よりも愛する者に帰する」と答えたという。

今まで所有権は単に地理的、歴史的概念でとらえられてきたが文氏はここで「愛の所有権」という新しい概念を提示したわけだ(口述を筆記)。


編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2014年8月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。