一年前の2013年8月5日に私は「誠実な人と不誠実な人」という表題でアゴラに記事を書いた。そして、その中で、長らく日本の言論界で圧倒的な力を持っていた所謂「進歩的文化人」を「不誠実な人」として断罪した。これらの不誠実な人たちは概ねサヨクだった訳だが、私はサヨク自体を断罪した訳では勿論ない。それどころか、「日本にも何とかして誠実なサヨクが育たないか」と強く願っている。
しかし、残念ながら、東京で大量の得票を得て衆議院議員になった山本太郎氏を始めとして、大衆に支持されるサヨク系の人たちの大部分は、今なお典型的な「不誠実な人」だ。どこが「不誠実」かと言えば、要するに「真実の究明」や「論理の筋道」には全く興味がなく、「嘘」も「誇張」も何でもありで、あらかじめ決めた方向に大衆を煽動する事にのみ興味を持っているという点だ。
現在のサヨクの二枚看板は「戦争ハンターイ」と「原発全廃」だ。理由もなく戦争に賛成する人などはどこにもいないだろうから、「戦争ハンターイ」は無意味な(不誠実な)スローガンだが、突き詰めれば「非武装中立」が望ましいとう考えなのだろう。これは元来の左翼思想とは何の関係もない。一方、「超安全志向の原発全廃論」のほうも、産業経済政策の一つの選択肢であるに過ぎず、これまた左翼思想とは本来は何の関係もない。
左翼思想とは、そもそもは、「資本主義経済」を信任せず、可及的速やかに「社会主義体制」に移行すべきという考えであり、更に、出来ればその先にある「共産主義体制」に移行出来れば更に望ましいという考えだ。だから、本来ならサヨクの定義も、この一点に絞ってなされるべきだ。社会主義体制の国でも、軍備が必要と思うなら、「軍備の強化」は最重要施策の一つになるだろうし、原発が必要と考えれば、積極的に原発の建設を進めるだろうからだ。
資本主義体制より社会主義体制のほうが良いと考える人たちには勿論ちゃんとした根拠があるし、その戦略も明快だ。そもそも資本主義というものは弱肉強食をほしいままにする体制であり、必然的に「格差社会」を生む。また、企業の経営権を握る資本家は、出来るだけ安く労働者を使いたいと思うのが当然だから、放置すれば、安い労賃がこの社会格差のベースとなる。だから、最終的には「選挙による政権交代で資本主義体制から社会主義体制に移行するのが望ましい」のだが、その過渡期においては、せめて労働組合が頑張って、格差縮小の為の一助となるべきだ。と、まあこんなところだろうか。
「人間の能力は本来そんなに変わらない筈なのに、現実には多くの人たちの生活水準に大きな差が出ているのは不公正であり、人間の力でそれが変えられるなら変えるべきだ」という考えは極めて真っ当な考えだが、実際にそれをやろうとすると、経済政策や賃金政策に国が大規模に介入する必要があり、経済が必ず不活性化してしまうというジレンマがある。そして、経済が不活性化すると、仮に格差はなくなったとしても、生活水準は一向によくならないどころか、却って悪化する結果になってしまう。
また、もっと大きな問題として、市場原理によって淘汰される実業家とは異なり、人工的に絶大な権限を持つに至った政治家や官僚は、必ず腐敗するという問題もある。これが結果として「資本主義国以上のより理不尽な格差の拡大」を招くという事も、既に多くの社会主義国の実態から明らかになっている。
従って、政治のあるべき姿は、原則としては、やはり、「どこまで経済活動の自由を認めるか」「どこまで政府の介入を認めるか」について常に意見が戦わされる「二大政党制」だと思う。そして、その議論の目指すべきところは、「経済力を最大化させる(小さな政府にする)」必要性と「格差を縮小し、社会保証を充実させる(大きな政府にする)」必要性を、どこで折り合わせるかという「均衡点」についての民意の確認であろう。だからこそ、それぞれの側の論者は、色々なシミュレーションを駆使する事によって、自分たちの考えが国民の為に最良である事を数値で示していく事が必要なのだ。
しかしながら、経済政策と並んで重要な「安全保障政策・外交政策」は、前述の如く、本来は「経済政策」とは関係のないものだから、「経済政策如何によって分けられた二大政党制」の下では議論は尽くせない。「原発稼働の是非を問うエネルギー政策」につても、また然りである。ここに「多党化」の意味があると思う。
つまり、今の日本においては、過半数に届かない自民党が政権与党である事を続けるとしても、公明党を含む他の多くの党が、それぞれの政策についてそれぞれの考えを持ち、それぞれの政策について是々非々の議論をして、或る時は自民党の提案を支え、或る時はその内容に修正を求めたり、その提案自体を葬り去ったりするのが、望ましい姿なのではないだろうか?
さて、今回の記事の表題である「日本のサヨクの系譜」という事に話を戻したい。私がサヨクとわざわざ片仮名表示をした事については、それなりの理由がある。私はこの片仮名表示で、本来の「左翼イコール社会主義者」の定義から離れ、「格差反対(市場主義反対)」「改憲反対(集団的自衛権反対)」「原発反対」の三点セットを呼号する人たちを、ひっくるめてこの片仮名表示の対象にしている。
ところで、私自身がこの人たちと一線を画しているのは明らかだ。何故なら、私は、何よりも「貧乏反対」であり、「外国による主権侵害は許容出来ない」という立場だからだ。
私も、現在の金融資本主義は明らかに行き過ぎており、何等かの軌道修正が必要だとは思っているし、具体的には、商品や通貨の信用取引、先物取引には何等かの制限が課されて然るべきだと思っている。しかし、「資本主義、市場主義、グローバリズムは、世界的に堅持していかなければ、世界中のみんなが貧乏になってしまう」とほぼ確信しているから、「格差縮小」には賛成でも、「社会主義経済への移行」には反対だ。
原発については、地域住民の不安を考えると「脱原発依存」は当然だと考えているが、「原発ゼロ」では経済がもたないので、「貧乏反対」の立場から「事故に備える為の慎重な対策を考えた上での原発再稼働」には積極的に賛成だ。
そして、私は、「出来るだけ多くの人たちが『科学的な事実』と『数値(確率を含む)』に基づいて原発稼働の可否については冷静な判断をした上で、原発の安全稼働を厳しく監視する事こそが何より必要だ」と考えているので、「放射能デマを振りまいて、放射能汚染に対する恐怖を必要以上に煽っている」人たちに対しては、尋常ではない程の憤りを感じている。
安全保障に関連しては、若い頃(1960年代)の私は「非武装中立(安保反対)論者」だった事を、先ずは告白しなければならない。当時は、中ソの現実がそれほど酷いものだったとは分からなかったので、「社会主義国になるのも悪い事ではないだろうから、取り敢えずは『米国の世界戦略の最前線に組み入れられて、東西両陣営が激突した時に多くの犠牲者を出さねばならなくなる』というような事態だけは回避すべき」という考えだった。
しかし、今はどうかと言えば、「日本の『民主主義』と『自由経済体制』はかけがえのないものになってきたから、間違っても中国の実質的な衛星国になるような事だけは防がねばならないし、外部の策謀によって経済力を徐々に削がれていくような事態も容認出来ない」「従って、米国との同盟強化と自主防衛体制の強化が、日本の安全保障の両輪としてどうしても必要だ」と考えるに至っている。
逆に言えば、かつての中ソの実態がよく分かった今になっても、なお「非武装中立」を信奉している人たちの精神構造がどうなっているのかが、私には全く理解出来ない。まさか「北朝鮮の金正恩さんも含め、世界の人たちはみんないい人たちなので、丸腰でニコニコしていれば何も心配する事はないよ」と思っている訳ではないのだろうが、彼等からは一向に説明がないので、「何が何だか全く分からない」というのが正直なところだ。
さて、そういう私は勿論「サヨク」の仲間には入れて貰えないだろうが、それなら「右翼」かと言えば、勿論違う。
「右翼」の定義も定かではないが、一応「国家主義的な考えの強い人たち」と理解すると、このような人たちは自動的に「グローバル経済に反対する人たち」に分類されそうなので、そうなると「貧乏反対」の私にとっては天敵になる。戦争前の日本は典型的な「国家主義の国」だったから、この人たちは、当然「過去を正当化したがる復古主義者」にも通じる筈なので、「過去の誤りは率直に認めて反省すべき」と考えている私にとっては、この点からも矢張り天敵になる。
それでは私は「保守主義者」かと言えば、これも違うと思う。そもそも「保守主義」という言葉は英国で生まれたもので、「アメリカやフランスのように危険な(理念的な)改革主義に振り回される事なく、以前から慣習とされているものを守っていくのが最も効率的で安全なやり方の筈だ」という考えに基づくものだ。
とするなら、日本には「保守主義」というものはあり得ない。強いて言うなら「明治時代のやり方に戻れ」という事になるのだろうが、まさかそこまで言う人はないだろうから、大体においては「吉田茂時代のやり方(反自主防衛主義、親米一辺倒、官僚主導で保護貿易的な自由経済主義)を守れ」という趣旨なのだと思う。そうであるなら、私はやはり保守主義者でもない。
私は、一応は文化的素養もあると自負しているし、「常に進歩したい」という気持も持っているのだが、「進歩的文化人」という言葉が、一時期、不当にもある種の「最も進歩していない人たち」の呼称にされてしまったので、もう「進歩的な人間」とも呼ばれたくはない。これは残念だが仕方のない事だ。
結局、左翼とか右翼とかいうものは既に時代遅れだし、今後ともこういう人たちが日本を動かすような力になるとはとても思えない。それ以前に、本来それぞれに千差万別であるべき人々の考えを、このようなレッテルで区分けする事自体が全く意味をなさない。これからは、全ての人も政党も、それぞれの政策について自分たちの考えを明確にし、お互いにレッテルの貼りっこをする事なく、全てを是々非々で議論すべきだ。