最近ニュースでよく耳にする「イスラムの国」をめぐり欧米が強い姿勢に出ようとしています。アメリカ人二人、イギリス人一人が殺害されたことが直接的きっかけでありますが、暴力とテロに訴える「イスラムの国」がこのまま許されることはないでしょう。ただ、その粛清への道は長く、遠いものになるかもしれません。
イスラムの国はイラクとシリアの一部で「国」を勝手に名乗っているイスラム過激派支配の地域でありますが、欧米のみなずイスラム教の多数派であるスンニ派が中心のエジプトやサウジアラビアからも国家としての承認はなされていません。
この「イスラムの国」の特徴の一つにカリフ制を自称しているところにあります。カリフとはイスラム教の預言者ムハンマドの代理人であり、イスラムの教義に基づき、国を治める役割を持つという事になっています。つまり、自分たちがイスラムの真の指導者的ポジションにあると主張しているわけです。これはイスラム過激派、原理主義的発想の本流であると考えています。
実はイスラム原理主義の活動のニュースを聞くたびに私は日本の学生運動を思い出し、どうしても重なってしまうところがあります。
日本の学生運動を非常にかいつまんで言うと第二次世界大戦後、第一次共産党設立者で出獄した徳田球一、中国から帰国した野坂参三の復活もあり、日本で共産党ブームが湧きあがりました。その際、学生は共産党の活動と共に動いてきました。が、1955年、共産党大会の結果、学生運動家と離反する形となり、学生運動が独立化していきました。
いわゆる60年安保はそれでも企業の労働組合が同調し、日本中が安保反対で燃え上がったのでありますが、安保後、学生運動は急速に沈静化します。一種の内部崩壊と理解しておりますが、その後、ベトナム戦争などで地球規模の学生運動復活で日本に於いても党派にこだわらない全共闘が東大あたりで始まりました。それが68年頃で、そこから70年安保に向かい新たなる学生運動が始まりました。しかし、この時には企業の労働組合は同調せず、別路線となりました。
学生運動は過激さを強め、それが最終的にあさま山荘事件やハイジャック事件、日本赤軍という一度は耳にしたこともあるだろう日本の歴史に残る数々の事件が引き起こされたのです。
この末期学生運動は正に原理主義であったと考えています。そのプリンシプルを貫くにはたとえ暴力や非合法なことに訴えてもその実現をさせるという「熱さ」がそこにあります。プリンシプルが過激さを増し、超越したエネルギーを発出するという点では戦前の大事件である226事件もほぼ同様な範疇にあると思います。
「イスラムの国」で起きているイスラム過激派は私から見ればまさに日本が経験したそれらの歴史と重ね合わせてしまいたくなるのです。
では、日本では学生運動はどうやって収斂したのでしょう? 私ごときがこんなこと書くと反発を頂きそうですが、「燃え尽きた」ことと「支持者がいない孤立感」ではなかったかと思います。
しかしイスラム原理主義は燃え尽きることはあるのでしょうか? 私には分かりませんが、そうたやすくはないでしょう。それより問題はイスラムの国は2万とも3万ともいわれる「要員」がいるとされていることです。多くはシリアから来ているのではないかとされていますが、いわゆる傭兵も含まれるのではないかと思います。そうであれば、アフリカあたりからかなり引っ張ってくることも可能であり、それこそベトナム戦争の時の様に底なしの様相を見せることもあり得ます。
原理主義は自分たちの行動が本質そのものであると本人達が信じているところに問題があります。だからこそ、スンニ派のみならず、シーア派もこれを否定し、「疲弊させる」ことでしか終結しない気がしております。
アメリカにしてもイギリスにしても正義との戦いは望みたいところでしょう。ただ、両国とも万全の体制にあるとも思えません。ましてや国連はほとんどお飾りの状態の中、宗教を舞台にしたこの不和を収めることはできるのでしょうか? 実に心配であります。
今日はこのぐらいにしておきましょう。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2014年9月16日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった岡本氏に感謝いたします。オリジナル原稿を読みたい方は外から見る日本、見られる日本人をご覧ください。