今、アベノミクスにおいて、女性の管理職登用が推進されようとしている。女性の能力をフルに社会に活かしてもらうことは大いに結構なことである。しかし、歴史的成り立ちの違う欧米社会と同様な感覚でこれを推進しようと言うのであれば、それは少し違うのではなかろうか。
ヨーロッパも日本も、歴史的には中世の頃から「個」の確立が進展してきたという歴史がある。ヨーロッパにおいては、長きに亘り、民族間・国家間・宗教観の違いにおいて激しい対立がくり返された。そのため、理性を働かせて共同体精神を培いながら、「個」の自由が確立されて行った。言わば、「個」を中心に据えた共同体社会が確立されていった。
それに比べて日本の場合は、多民族社会ではなく、島国ということもあり、ヨーロッパに見るような社会的対立はなく、平和で自由な社会を構成するために、「和」を中心に据えた「個」の確立と言った形が進み、現在に至っている。欧米社会は「個」が先に立ち、日本は「和」が先に立つ社会である。どちらが「是」であるということはない。明治維新を迎えてヨーロッパの科学と制度を取り入れることとなったが、ヨーロッパのような個人主義は浸透しないまま「和」を重んじる社会が形成されて行った。
上記のように欧米的な個人主義が徹底した社会では、男性と同様の女性の社会進出も、日本に比べれば社会的同意が得られやすく、容易であろうと考えられる。日本社会のように「和」にもとづいて形成された社会では、社会全体の同意が得られるには、男女ともにこれに対する意識の涵養が必要であり、時間がかかるのではないだろうか。何事も頭では分かっていても、それに気持ちが付いて行くには時間がかかるものである。
また、職場での男女平等を確保する目的で「男女雇用機会均等法」が1986年に施行されて30年になんなんとするが、女性の管理職登用は遅々として進まなかった。激しくしのぎを削る管理職社会の中で、この中に身をおく覚悟を持つことへの女性自身の意識の遅れもあるのではなかろうか。無理をして女性管理職を登用した結果、その周囲に負担がかかってくるようでは逆効果ということになってしまう。
欧米社会と同じような女性の社会進出を念頭に置いているのであれば、今後上手く事が運ぶのかどうかを危惧してしまう。ましてや企業に対して、女性管理職登用の数値目標まで掲げるのは、杓子定規的な考え方のように思われる。社会的承認が得られないまま事を急いで、逆に企業の生産性が低下するようなことがあってはならない。
人間関係を中心に築き上げられてきた日本企業の「和」を中心とした組織に、無理強いした形で女性管理職を登用するのは、組織に弊害を及ぼすことが危惧される。これが失敗したら益々女性の管理職登用は遠のいてしまう。そして女性管理職が向いている職種と向いていない職種があるだろうから、この点も十分考える必要がある。ただ女性管理職の頭数だけ揃えても、経済発展には繋がらない。その下準備が大切ではなかろうか。
また、男性の育児も大切ではあるが、思うに、母親の子供に対する愛情は細やかで慈愛に満ちたものであり、この愛が子供の成長には重要である。そして母親が子供を慈しみ育てることは自然である。目先だけに囚われずに、未来の正しい人間を育てていく責任を負っている私たちは、このことも同時に考えておかなければならない。これらのこともわきまえた上で女性の社会進出を進めていかなければ、本末転倒といったことにもなりかねない。我が国の社会に沿うような形で、女性の管理職登用を研究・推進していくことが肝要と考える。
帆保 洋一(ほぼ よういち)
〔writer & IT講師 & キャリアコンサルタント〕
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