最近サッカーをしようと近くの公園にいったところ、「ボール禁止」の看板があり、サッカーの練習をあきらめた。子供たちは気軽にサッカー遊びをできなくなっているのだ。特に23区内の多くの公園では「ボール禁止」といった看板を見ることが多く、ボール遊びをできる公園は大きな公園にならないとないとできないのが現実だ。しかも、ボール遊び以外にも色々と「〇〇禁止」という看板が並んでいる。
こうした現状はどうかと思い、区役所に問い合わせをしても、都市の限られた空間を多くの方が利用するためには様々な制約が必要との見解を示す。「区立の多くの公園では周辺の皆様からのご要望により禁止の看板を設置しており、「球技を可能とするには、周辺の住民や他の利用者の安全確保のため、防球のためのフェンスやネットなどの設備が必要です」との回答をいただいた。
6年後に東京五輪を迎え、スポーツ振興を進める自治体の立場がこれである。誠実な回答ではあるし、自治体や熱心に仕事をしている自治体職員を責めるのもかわいそうだ。ボール遊びについて一部住民が文句を言う、それに対して誠実に検討した結果がボール遊びを禁止する看板だったのだろう。しかし、声の大きい住民が苦情を言う、それに対して地域の声を聞いたりしないで「〇〇禁止」をすることはもっとも安易で楽な方法ではとも思う。本来なら地域の住民の声を綿密に聞いて、地域で話し合うことをコーディネートするくらいのことをしてもらいたいと思う。なぜなら、一部の住民の個人的に大きく感じられる不満を優先することで、多くの住民の薄い利益を失っている。子供の遊ぶ場が制限され、ますます体力やスポーツに触れ合う機会が減ってしまう。
大人たちはボール遊びをする子供を暖かく見守る、子供とコミュニケーションを取る、危ない行為をしていたら注意する……といった行動を取れなくなったのはなぜか。音がうるさい、ボールがあたった、ボールが飛んでくるかもしれない……そのようなことをなぜ我慢できないか。それはボールを使う子供が「他人」「空気」だからだ。たしかに地域の連帯も人間関係も希薄で、日々の生活のプレッシャーや心理的な余裕のない都会では仕方ないかもしれない。
しかし、自分にとって感情的に不満・不快なことで区役所に苦情をいってそれで満足しても、公園の機能がますます失われ、ますます人々の交流の芽を摘んでしまし、人間関係が希薄化し、「公共空間」の再生は遠くかなたになってしまう。そして自治体も社会的には弱者である子供の可能性の芽を結果として摘んでいる。遊び場を奪われた子供の声は自治体には届く手段がない。
問われているのは、地域住民の寛容性である。私の家の近くにもプールや公園があったが、庭にボールが入ってきても「仕方がない」と考えていたし、両親は申し訳なそうにインターホンを鳴らす人に対して、笑顔で対応していた。公園の近くに住むことはそういうことを引き受けなくてはいけないと自覚していたのだろう。
「子供が遊ばなくなった」と何も考えずに発言する人が多いが、余裕を失った都市住民のセンシティブな感情は、子供が自由に遊ぶ場所を減らすことに大きく貢献していったと個人的には思っている。そして、都市住民の息が詰まるような環境を作り、そして、UNICEFの調査結果が示すように「自分が孤独だ」と感じてしまう多くの子供を作ってしまったのかもしれない。別に批判したいわけではない。周りに知らない人が増え、コミュニケーションも取れない都会で余裕を失ってしまうことも仕方のないことだ。この状況を打開するために、今後皆で考えていく時ではないかと思うのだ。
西村 健
日本公共利益研究所 代表