アナログなコミュニケーションを見直そう --- 岡本 裕明

アゴラ

私は東京でマスミオーマンディ氏主宰の「コミュニケーション塾」のメンバーに入っています。「教えない塾」をキャッチに活動を始めたところで11月に二回目の塾が開催されます。今回の講師は橋本眞史氏(元ソニー生命常務、現LoveMeDo社長)なのですが、橋本氏は話がうまく、なるほどと思わせる博識ぶりなので楽しみです。

私がなぜ、コミュニケーションに興味を持ったか、といえばインターネット時代に会話が圧倒的に不足してきた一方で、文字コミュニケーションでも往々にして十分な意思伝達ができていないという危惧があったのです。


私はスマホなどを使ってコミュニケーションするのは消極的で基本的に好きとは言えません。小さい画面に打つのがまどろっこしい以上に口頭なら間違いなく双方の意思を確認できるのに限られた言語数だと必ずお互いの意思がうまく伝わっていないのです。いや、これはスマホのテキストに限らず、E-mailでも同じです。5、6行のメールを送った場合、1割ぐらいは間違って認識されています。理由は言葉尻がきちんと読まれていないことでAと言っているのにBだと勘違いしているのです。それを指摘すると場合により相手を「否定」することになり嫌になってきてしまいます。こんなことは皆さんも経験されているかと思います。

もう一つはこの文字コミュニケーションが子供たちや教育界にも影響していることでしょうか?

9月11日、東京都教育委員会は都立高校の入試にマークシート方式を来年から1割の20校で試験導入することを決めたことを発表しました。理由は記述式の採点に過去3年で3000件の採点ミスがあり、20数名が追加合格したことを受けての改善策であります。これは二つの重要な意味合いを持ちます。採点側は記述内容を十分に読み取る能力に欠けていたことを自ら露呈したこと、二つ目は生徒に記述させず、暗記学習を推し進める時代への逆行が見られることです。

北米では記述を重んじ、答えは一つではなく、考え方のアプローチと論理性が重視される中、暗記学習復活となれば日本の将来に疑問符がつきます。

これに対して別科目で記述式試験を通じて一つの解しかないものを要求せずに受験生の発想の豊かさをみる試験を導入したらどうでしょうか? たとえば「原発はどう思うか」「高齢化社会に日本がしなくてはいけないこと」「隣国との関係をどう考えるか」など誰でもそれなりに意見があることを起承転結をもっていかに論理的に説明できるか、という事に発想転換したらどうでしょうか? 採点のポイントは文章が書けるか、説得できるか、誤字脱字、文章構成などを「論理的に」採点すればよいでしょう(どうしてもだめなら機械にやらせたらどうでしょう。カラオケの採点機能も作れる日本ですから文章の採点機能も作れないものでしょうか?)。

文字コミュニケーションが進むとは事象を0と1の組み合わせで考えやすくなります。しかし、人間は曖昧さを持たせるのが特徴であるはずです。昔「ファジー」機能がついた家電がありましたがまさに機械ではできない微妙さを表現したり考えるのが人間の特徴であったはずです。0と1の組み合わせならば将来コンピューターに人間は凌駕されることになり、コンピューターに使われるのが人間という事になってしまいます。

例えばコンピューターが普及した現代、記憶能力はITディバイスに任せています。あなたの大事な家族や友人の電話番号、いくつ言えますか? ほとんど言えないはずです。では、10年後、車が自動運転できるようになったら人間から運転能力を必要としないことになります。スポーツカーが消滅するという事でしょうかね? つまり人間の持てる本来の能力を発揮するところがどんどん少なくなっていきます。文字コミュニケーションの発達とはまさにこの人間能力否定の初期的事象であるともいえるのです。

だからこそ、今、人は話さなくてはいけません。議論し、バトルすべきなのです。ギリシャやローマ時代の大弁論をもう一度見直すぐらいの必要性があるのです。

私が見ている限り、議論になるとその瞬間「議論のリングから降りてしまう」人を見受けます。自分とは違うと諦めるからでしょうか? それとも議論出来るほど、知識武装がないのでしょうか?

コンピューターが世の中を席巻する時代だからこそ人間臭いコミュニケーションの意味があるのではないでしょうか?

今日はこのぐらいにしておきましょう。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2014年10月5日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった岡本氏に感謝いたします。オリジナル原稿を読みたい方は外から見る日本、見られる日本人をご覧ください。