ピケティ『21世紀の資本論』とカウボーイ:文化的考察(その2) --- 宮本 陽子

アゴラ

(その1)より続く。

1950年代にアメリカの有名な経済学者サイモン・クズネッツ(1971年にノーベル経済学賞受賞)は、革新的な統計学的手法を用いて19世紀後半から20世紀半ばまでのアメリカの経済発展を分析し、経済格差が縮小していることを発見した。これを説明するのにクズネッツは、経済成長はその初期には経済格差を増長するが、労働者がより生産性の高い分野に動くことによって労働者の収入が増すので、高度に発展した経済においては市場の働きにより、格差が縮小する、という楽観的な解釈をした。この解釈が憶測に過ぎないことは本人も認識していたようだが、アメリカ経済学会の会長であったクズネッツがこの論を1954年のアメリカ経済学会で報告し、翌年出版したことによって、経済学の定説になり、今でもこれを「科学的」経済法則と信じている人は多い。(『21世紀の資本論』序章、第7章)


ピケティはクズネッツに深い敬意を示している。尊敬するが故に、クズネッツの手法を更に長い歴史期に応用してみたら、皮肉にもクズネッツの解釈を反証する結果になったのである。ピケティの分析によれば、個人財産に基づいた市場経済においては、労働報酬の上昇率は資産からの収入率を歴史的に下回り、市場の働きだけに任せれば格差を必然的に広げることになる。20世紀の前半から半ばにかけて格差が縮小したのは市場の働きではなく、二回の世界大戦と世界恐慌によって富裕層の財産が減ったことと、大戦後に導入された社会福祉政策によるものであった。社会福祉政策が削減された1980年以降、世界的に、特にヨーロッパとアメリカで格差が拡大し、現代は富裕層が(ブッシュ前大統領の相続税緩和策も手伝って)相続によってますます富裕化する第二のベル・エポックになっている、と結論している。

ノーベル経済賞受賞者のポール・クルーグマンは「大学院で習ったことをいつまでも信じてるもんだから」と言っていたが、クルーグマンと共にピケティと座談会をした、同じくノーベル経済学賞受賞者のジョーゼフ・シュティーグリッツは、「えせ資本主義」という題の一文に書いて、どんな資本主義も格差を増大するというのではなく、現在アメリカで行われているようなえせ資本主義が格差を増大するのだと苦しいことを言っている。シュティーグリッツ自身、存在したことがないと言う、純粋な資本主義を議論しても、「神の見えざる手」を信じるかどうかの問題になってしまう。

Institute for New Economic Thinking の先導者であるシュティーグリッツでもこんなこと言うほど、資本主義が善の力だというのは、誰も疑わない常識だったのだ。『21世紀の資本論』という題名は、「神の見えざる手」に導かれた自由市場が善の力だという、科学的に証明されていない自由市場経済学の教条に対する挑戦である。

ピケティは、自分はマルクス主義者でも反資本主義でもないし、格差がいつでも悪いというのではないとはっきり言っている。能力に見合った公平な格差はよいが、現在のような社会的に不公平な格差は是正すべきだと言い、より公平なよりよい社会を構築できる新しい経済学を築こう、と呼びかけている。(『21世紀の資本論』序章、結論)高度な「科学的」知識を以て経済、社会を正しく理解出来るのだと称してきた自由市場資本主義経済学者達に不信を募らせていた人々は、この偉ぶらない気さくなフランス人経済学者に有能な代弁者を見出し、我も我もと『21世紀の資本論』を買ったのである。

(その3)に続く。

宮本 陽子
歴史研究者(無所属)
オーストリア・ウィーン大学歴史学博士(D.Phil.)
シカゴ在住
ホームページ:Demystifying Confucianism