上野から東京へ、そして品川へ、やがて…… --- 岡本 裕明

アゴラ

1868年、新政府軍と彰義隊がぶつかった上野戦争、西郷隆盛の銅像、そして、1883年の上野駅開業。このころから東京の繁華街、あるいは北の玄関口としての上野は繁栄を遂げました。御徒町、アメ横といったバタ臭さがある一方、当時、都内で高級住宅地とは上野からすぐ西の文京区でありました。世田谷区にはぺんぺん草が生えていた時代です。


1880年代後半、上野から青森までの鉄道建設が進んでいたことを受け、新橋から上野までの鉄道を敷設することが決まり、その中間駅として作られたのが東京駅。出来たのは第一次世界大戦が始まったあの年で今から100年前の1914年です。

その後、新幹線が東京駅発となってから東京駅と上野駅の立ち位置は変ってきたと思います。新幹線の完成は東京駅ができて50年後の1964年であります。この頃から玄関口としての役割が北の上野、西の東京となり、東京駅周辺の開発に弾みがかかり、上野の地位は低下の一途となります。最終的には1991年の東北新幹線東京乗り入れが決め手となったと思います。東京駅の時代の本格的幕開けであります。

駅周辺の再開発ラッシュとなり、汐留開発もそれに加勢することとなり東京駅の機能は拡大の一途を辿ります。その上、先日のブログにも書いたようにこれからは八重洲の再開発が始まろうとしており、その拡大傾向は留まるところを知りません。

ところが田町操車場の再開発計画が街を更に西に動かしたことも否定できない事実であります。全ての新幹線が品川に止まること、リニアの始発が品川になること、羽田空港により近いこと、駅周辺の再開発がひと段落し、いよいよ田町にエネルギーが集結することなど材料は豊富です。

そして今日、このネタをわざわざ取り上げたのは東京駅と上野駅の間の「東京ー上野ライン」が来年3月14日開業となり、常磐線は品川発着となるなど品川駅の利便性が圧倒的に高まることになるのです。

新幹線から在来線への乗り換えは何処が楽か、といえば品川であります。理由は地下駅などがなく、駅中をさまよわなくてよいこと、人の流れが東京駅ほどではないので歩きやすいことなどがあります。逆に言えば東京駅の開発には無理に無理がかかり過ぎて様々な電車が乗り入れているものの供給側の論理主体(役所の論理としておきましょう)で利便性が相当犠牲になっていることがあります。

例えば地下鉄の大手町で迷わずにスムーズに乗り換えができる「初心者」は少ないかもしれません。それ以上になんでこんなに歩かせるのか、乗り換え駅としての表示にウソがあり、と思わず叫びたくなるのは私だけではないでしょう。

つまり、東京駅及びその周辺のインフラ整備は機能性を考えればもう限界なのであります(物理的にはまだ作れるでしょうが、その価値はコストの増大に反比例して薄れていくと思います)。

とすればただでさえ都市機能が一点集中していると言われる東京の中で東京駅周辺に重きを置き過ぎた都市計画そのものに疑念さえ感じます。多分、財閥系と官との関係が開発を推し進めたのでありましょうが、当然ながらここはもうこれで止めにすべきであります。

新幹線開通から50年の今、なるほど上野から東京へのバトンが50年後に渡されたように東京から品川へのバトンが渡されたと歴史書は書くはずです。そして町は西に延びる、これも当たりました。

では、最後におまけですが、不動産事業を長くやっている者としてもう一つの新しい格言をここに書き添えておきます。それは

街は水に向かって開発される

であります。今日は紙面の都合でこれ以上書きませんが、これも自信があります。

では、品川の次はどこかと質問されると思います。はい、私は大井町の操車場だとにらんでおりますが(ヒントとしてあそこならJRが神奈川方面に既存の線路を使えば新線を延ばしやすいはずです)。

ということで今日はこのぐらいにしておきましょう。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2014年10月31日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった岡本氏に感謝いたします。オリジナル原稿を読みたい方は外から見る日本、見られる日本人をご覧ください。