戦争と平和

松本 徹三

今回はユニークな表題にさせて頂いたが、別にトルストイの長編小説の解説をしようというものではない。多くの日本人があまりに安易に「戦争」とか「平和」とかいう言葉を使っているので、もう一度「日本で戦争のない状態(平和)が長い間続いてきた理由」と「日本が再度戦争に巻き込まれる可能性」とを考えてみたいと思っただけだ。


「戦争の悲惨な現実を知っている人」や「戦争がどういうものかを想像できる人」「戦争がもたらすものを計算できる人」は、勿論「何としても戦争は避けねばならない」と考える事で一致するだろう。しかし、現在の日本には三つの問題がある。先ず、戦争の悲惨さを体験した人たち(特に「前線の一兵卒」や「引揚者」や「爆撃の被災者」だった人たち)が数少なくなって来た事。第二に、特に左翼系の人たちによって、「平和」という言葉が「抽象的なお題目」として語られ過ぎてきた事。そして第三に、映画やゲームによって「感動的な戦争」が描かれ過ぎてきている事だ(英雄的、感動的な行為を映画にすれば、多くの人が見に来るが、戦争の惨めさや馬鹿々々しさを描いても客は入らないから、これはまあ止むを得ないのかもしれないが)。

現在の日本人が「平和ボケ」になっているという事はよく言われるが、それはその通りかもしれない。安保闘争の頃は、東西冷戦がかなり緊迫していたので、西側の一員になって戦争に巻き込まれるのを忌避したいと考える人たちが多かったのは事実だ。「非武装中立」という美しい言葉が使われたが、実質的には「東側に組み入れられても良い(組み入れられたほうが良い)」と考える人たちがリードした運動だったのだから、別に多くの人たちの頭の中がお花畑だったわけではない。しかし、社会主義に対する幻想が崩壊し、「東側」という概念がなくなった今は、「主義主張が終始一貫している共産党」の人たち以外で「平和」を口にしている人たちが、一体何をどう考えているのかはよく分からない。

そもそも、「戦争か平和か」という問いかけ程馬鹿げた問いかけはない。そう聞かれれば、余程の破壊マニア、自傷マニアでない限り、平和のほうが良いに決まっているからだ。真に問われるべきは、戦争を避ける為に「どこまで損をしてもよいと考えるか」「どこまで自由を失ってもよいと考えるか」「どこまで屈辱に耐えてもよいと考えるか」という事だ。このような問いに対する答えは、人によって相当異なったものになるだろうが、現在の日本の問題は、誰もそこまで突き詰めては考えず、抽象的な言葉の遊戯に留まっている事だ。

負けると決まっている戦争をする馬鹿はいない。一時ソ連への屈従を止めて自由になりたいと考えたハンガリー人も、ソ連軍の戦車が入ってくると一転して屈従を継続する事に決めた。一触即発の状況下での国際交渉では、共に出来れば戦争は避けたいと考えつつも、両当事者は最後までブラフをして、少しでも多くを勝ち取ろうとするのも、世の中の常だ。また、両当事者間では力の優劣が明らかでも、国際世論を味方につけることによって挽回できると考えれば、ゲームは複雑化する。このように戦争と平和の分かれ道は、現実にはそんなに単純なものではない。

また、戦争には、国と国との戦争もあるが、国内での内乱のほうが実ははるかに多い。そして、内乱になると、国外の勢力が介入してくる可能性も多くなる。

内乱の原因の多くは、第一に民族的な対立、第二に宗教の対立だろう。その双方が混合しているケースも多い。ベルギー領コンゴでは、国の独立を実現し、ベルギー政府が撤収した途端に、ツチ族とフツ族の間で凄惨な殺しあいが起こった。バルカン半島では、ユーゴスラビアという人工的な共産主義国の支配体制下では平和が保たれていたが、この国が崩壊した後には大混乱が生じた。各国にまたがって住んでいるクルト人は、民族自決を求めて、トルコ政府やイラク政府と長年にわたって戦ってきた。

国を支配する勢力が一定の民族や宗教に偏り、彼等が他の民族や宗教に対して露骨な差別を行ったり、強圧的になったりすると、これは確実に内乱の火種になる。その隣に、弾圧された側の民族や宗教が支配する国が存在すると、これが国と国との戦争に発展する事も多くなる。ウクライナは別にロシア系の住民を弾圧していたわけではないが、政権党がかなり極端な親EU(反ロシア)政策をとるとなると、ロシア系の住民の居心地は当然悪くなるから、彼等が隣国であるロシアの支援を受けて独立を画策する事態になる事を防ぎ得なかった。

かつては、内乱の主な原因は、民族や宗教の対立よりも「階級闘争(イデオロギー闘争)」である事が多かった。つまり、格差の広がる資本主義体制を打破して、格差が小さくなると期待されていた社会主義体制に移行する事を多くの民衆が望み、政権側がこれを弾圧すると武装闘争に転じるというパターンが、世界の多くの国で同時多発的に起こってもおかしくない状態だった。

現実に、米国の資本家やギャングと結託した政権の腐敗が極端なレベルにまで達していたキューバでは、これが成功したし、南ベトナムもそれに近い状態だった。モスクワを司令塔とする国際組織「コミンテルン」(別名「第三インターナショナル」)がこれを支援したのは当然だったし、西側陣営は、この動きが次々に隣国に波及していく「ドミノ現象」に恐怖していた。

しかし、当時はキューバ以上に貧困で、ベトナムと同様に「北の支援を期待した民衆蜂起」が起こる可能性もあった韓国では、朴正煕がかつての日本の2.26に倣ったとも言える軍事クーデターを起こし、強権政治をベースに経済成長を成し遂げた一方で、北の政権は「人間の本性を見抜けなかったマルクス主義の罠」にはまって経済的に自滅した為、この世界的な流れには歯止めがかかった。インドネシアやイランでも、共産勢力はかなり強かったが、それよりも強い基盤を民衆の中に持っていたイスラム勢力によって壊滅させられた。

そうこうしているうちに、ソ連自身がマルキシズムを捨てる選択をせざるを得なくなった一方で、発展途上国の多くでは曲がりなりにも民主主義が確立されてきたので、イデオロギーによる内乱の可能性は現状ではかなり少なくなってきている。

さて、本題に戻って、日本の状況について語ろう。

かつての日本は「経済的に自立して欧米に追いつく為には植民地の確保が必須(満蒙が日本の生命線)」という切迫した強迫観念に取り憑かれていた。第一次大戦による好景気に浮かれていたところに恐慌に見舞われ、欧米諸国によるブロック経済化に脅かされていた当時としては、これは止むを得なかったとも言えるが、「満蒙はともかく、中国に対する野心をあからさまにすれば米国は黙っておらず、必ず石油の禁輸措置を取ってくるだろう」という事が読めなかったのは、見通しが甘すぎたと言わざるを得ない。

石油がなければ艦隊は無力化し、制海権を失えば海外では戦えなくなるのは当然だ。緒戦に予想外の戦果を挙げ、米英の失策でインドネシアの油田施設の破壊が免れるという僥倖があったので、かなりの間戦えたが、その間に「物量の圧倒的な劣勢を『大和魂』で補う」という狂信的な考えに深入りしてしまった為に、早期講和のチャンスを失い、国の滅亡の淵まで追い込まれた。

(因みに、もし昭和天皇の英断がなく、軍部が最後まで主張した本土決戦にのめり込んでいたら、終戦時の日本の人口は三分の一位にまで減ってしまっており、国は南北に分断され、今日の日本はなかっただろう。)

しかし、敗戦後は、日本人は一転して極めて現実的になった。種々の要因で日本におけるイデオロギー闘争は大きなものにはならず、もともと宗教や民族の対立もないところに、急速な経済復興で「一億総中流社会」が実現したので、敗戦後の日本には内乱の危機はついぞ訪れなかった。日本の安全保障体制は、戦後は一貫して対米従属に徹してきたが、「第三次世界大戦の危機を孕んだ米ソ対立」が解消した今となっては、現実にはこれで失うものは殆どなく、日本の現状は平和そのものである。

強いて「どのようなリスクがあるか」と言えば、現状ではやはり「中国の膨張主義」だろう。それだけだと言ってもよいかもしれない。ロシアはもはや脅威ではない。朝鮮半島の状況が日本にとっても脅威となる可能性もゼロとは言えないが、極めて小さいと見てよいだろう。

中国の習近平政権としては、民衆の反乱を防ぐためには汚職腐敗の根絶が必須であり、その為には反対勢力を力で抑え込む必要があり、その為には軍部の歓心を買ってこれを味方につける必要がある。また、民衆の不満を外に向けて発散させる必要もある。だから、臆面もなく「偉大なる中華の夢」を語り、尖閣問題などでもギリギリのパワーゲームを演じなければならないのは当然だろう。

しかし、大方のごく普通の日本人も、現時点では「あまりにも主体性がなかった戦後レジーム」にはそろそろ終止符を打ちたい気持ちが強くなっているので、筋を曲げてまでパワーゲームを忌避するという選択肢は持っていない。「中国の共産主義体制を賛美し、日本もそのようになるべきだ」と心底考えていたような人たちは、かつては相当数いたが、今は殆どいないと言っても良いだろう(時代錯誤の人たちはいつの時代にも若干はいるが、それが大新聞社の主流を占めるような状況はやがては消えていくだろう)。

そうなると、尖閣地域で哨戒任務についている双方の前線のパイロットのフライイングなどによる「偶発的な軍事衝突」のリスクは常にある。リスクがある限りは、そのリスクを極小に抑えるための方策と、不幸にしてそれが実現した場合の対処方法は十分考えておく必要がある。

集団自衛権の問題は話が複雑になるので今回は触れないが、「戦力をもたない」と規定した現在の日本憲法の第9条第2項は、厳密に言えば、このリスクを増大させるものだと認識しておく事はどうしても必要だ。護憲派の人たちは「軍備があれば戦争のリスクが高まる」と主張するが、それは一体如何なる論理に基づくのか、理解に苦しむしかない。日本側に軍備がなければ、相手国は自国民が喜ぶ「冒険主義」を抑える理由が全くなくなるから、どんどん行動をエスカレートさせるのは当然ではないだろうか?

尖閣については、「日本の実効支配の現状を力で変えようとするような如何なる他国の行為も許容しない」という不退転の姿勢を持ち、且つそれを実現するに必要な備え(軍備)を持つ事が「基本中の基本」だが、勿論それだけでは駄目で、柔軟な外交交渉がこれと一体になっていなければならない。そうでなければ、「とにかく勇ましい事を言って自己満足に浸る単細胞の人たち」と何等変わる事がなくなってしまう。国が「平和を守る強い意志」を持つ限りは、そういう人たちとは明確に一線を画するべきは当然だ。

「強い姿勢」は「柔軟な姿勢」と一体になってこそ、はじめてその効果を増す。つまり、「平和を維持する為にギリギリまで努力するのはやぶさかではないが、最後の一線は譲らない」という姿勢を示す事によって、はじめて相手側に「落し所を探す」意欲を持たす事が出来るのだ。その為には、相手側の事情をよく読む事が必要なだけでなく、相手側にこちら側の事情をよく理解させる事も必要だ。これが外交の基本だという認識を、我々は常に持っていなければならない。