21世紀の「羊」と「羊飼い」の関係 --- 長谷川 良

アゴラ

今年のえとは未(ひつじ)だ。欧州に住んでいると、車で地方の田舎道を走っていれば、山裾に「羊」の群れを見かけることはあるが、都市に住んでいると「羊」を目撃することはまったくないから、「羊」と言われてもピンとこない人が多いだろう。都会は犬や猫で占領されて久しい。

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▲イエスと羊たち


ところで、「羊」といえば、主人の言い付けに従う、おとなしい動物というイメージが定着している。だから、羊年生まれの人は温和で人情的、対立や紛争を嫌う性格があるという。家族の安泰を表するとも受け取られている。

羊は一匹狼ではなく群れを成す動物だ。だから、その群れを管理する羊飼いがどうしても不可欠となる。草原で草を食べている羊たちを囲いに戻すのは「羊飼い」の仕事であり、時には犬たちがその役割を果たす。

「羊飼い」と「羊」の関係については、新約聖書の「ヨハネによる福音書」10章を読めば、詳しく記述されている。イエスは自身を「良き羊飼い」といい、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と述べている。旧約聖書では、羊は神への良き供え物だった。

ところで、「羊飼い」と「羊」の関係は現代社会でいえば、会社の社長と社員、国家では政治指導者と国民、学校では先生と生徒の関係に当てはまるかもしれない。

日本の書店ではさまざまな「会社経営論」やその成功談といった類の本が多い。そこでは程度の違いはあっても、経営者と社員の一体化、連帯感の重要性が言及されている。すなわち、「羊飼い」と「羊たち」の話だ。いくら立派な経営者も無理難題を社員に強いれば、社員との関係がしっくりいかず、時間の経過と共に、会社運営にも悪影響が出てくる。

経営者は「自分の考えを100%理解し、それを具体化してくれる賢い社員」を期待する一方、社員は「自分たちの努力を正しく理解し、認知してくれる経営者」を願う。社長と社員にはそれぞれ“理想的経営者、社員像”があるわけだ。両者の関係がうまくいかないと、経営者が発破をかけても社員は動かない。“笛吹けど踊らず”といった状況が生まれてくる。羊たちが羊飼いに反旗を翻す状況も考えられるわけだ。

独週刊誌シュピーゲルでフェイスブックの創設者マーク・ザッカーベーグ氏の会社経営の話が紹介されていた。残念ながら詳細な内容は忘れたが、各社員がその能力、創造力を発揮しやすいように会社の運営、勤務時間などはかなり自由だ。経営者が社員に上から命令するというケースは少ない。社員一人一人にオーナー意識が要求され、社長の命令だけで動くといったことは少ないという。

社会学者が指摘するように、人間は関係存在だ。独りでは存在できない。だから、人間が存在するところでは自然と組織が生まれてくる。組織が誕生すれば、指導者(羊飼い)と従う人(羊)の関係が出てくる。主体者と従順者の関係だ。皆が主体者とはなれない。必ず、主体者と対象者の関係だ。

21世紀の「羊飼い」と「羊」の関係はどのようなものか。イエスの生きていた2000年前と21世紀では、状況は全く異なるから、やはり新しい関係が生まれてこなければならないが、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」といったイエスの言葉は現在にも当てはまる「羊飼いの哲学」ではないだろうか。


編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年1月2日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。