震災あってよかったね!ってぐらいになろう。

倉本 圭造

毎年1月17日になると、メディアが沢山取り上げてくださることもあって、震災のことを思い出すことになります。とはいっても311の方ではなくて、20年前の阪神淡路大震災のことですね。

思い出を語るのって興味ある人以外にはちょっとウザいのかなという気持ちもあって普段は日常会話でもやらないんですが、最初の著書を出した時に感極まって長い思い出話をあとがきに書いたら結構良い反応を返してくれる人も多かったので、20周年だし!に甘えて書きます。

震災の時は冬の早朝で、当然ながらほとんどみんな寝ていました。当時高校1年生だった私は本棚やら色んなものが自分の布団に降り注いでくる中で、住んでいたマンションの一階下の、普段は大声で親子が「死ねクソババア!」「親に死ねとは何事か!お前が死ね!」とかしょっちゅう聞こえてきてた母子家庭のMさん宅から、息子の名前を必死に呼ぶお母さんの声が聞こえてきたのが凄い印象的でした。


それ以降、小中学校の友達が訪ねてきて一緒に自転車で各地の被害を見て回って、そうするとワンブロックまるまる焼け落ちてるゾーンがあるかと思えば、一見すると何の被害もないように見えるゾーンが凄く明確に分かれていることもわかってきました。高速道路が倒壊してるのを見るのも相当現実感がなかったですけど、一番衝撃的だったのは三宮駅から北を見たら結構高いビルが一棟まるまる横倒しになっていて、それはあまりに非現実的なものに見えて、近寄って地面と接している部分を確認する勇気がないまま帰りました。

通っていた高校では一人だけ亡くなった同学年の女の子がいて、その子は私が当時好きだった女の子(中学時代から好きで、その子と同じ学校に行きたいから頑張って勉強したとか言う感じの)の親友だったんですが、震災の数日後に電話がかかってきて「一人だと心細いから遺体安置所まで一緒に来てほしい」と言われて片道40分ぐらいの隣の区にある遺体安置所まで二人で歩いて行く・・・という甘酸っぱいのだかなんだかよくわからない経験もしました。

道すがらずっと見えているJRの高架は落ちていて、倒壊している建物もそこかしこにあるし、一緒に歩いている女の子は親友が死んだのを確認しに行く・・・んだけど、その日は本当に良い天気で、その子とはどうということもない穏やかな雑談をしながら歩いたりして、この平和で甘酸っぱい感じと六千人以上(当時はまだ知らない数字でしたけど)死んでる状況とのギャップが、後々効いてくる自分の「震災体験」のかなり大きい部分を占めている気がします。(僕はよく知りませんけど、”この感じ”を描写したアニメはここ20年の日本で結構作られているような気がする)

要するに、「直接的な被害」・・・家がなくなった、大事な人が死んだ・・・などは、大変だけど逆にわかりやすい対処のしようがあるとも言える。

でもなんか、心の奥に「違和感」というか、「心の傷」とか言うとそれも違う気がする、自分が踏んでいる地面が常に不確かであるような感じ?は、被災者同士の中でもあまり共有できずにジットリとそれぞれの中に残っていく種類のものだな、と思っています。

要するに、「被災者」としてくくるとわかりやすいけれども、状況は全然違うわけですよね。

道一本向こうまで丸焼けになってる地域で、その道のこちらがわの隣の家はその日から電気もついて当たり前の生活をしてたりする。

あるいは、結構シャレにならない被害を受けた人本人も、その間甘酸っぱい恋心もあるっちゃあるし、天気はドラマみたいに心象風景に対応してくれなくてやたら脳天気に晴れたりもするし、いろいろな生理現象にもいつも変わらず悩まされるしで、どんだけ「非日常」という状況が押し寄せてこようとも、自分の肉体は完全に「日常」を生きていかざるを得ない・・・みたいなところがあるんですよ。

結局実家のマンションは一部損壊扱いだったけど今でも建っていますし(引っ越しましたが)、親戚や近い友達には死者はいなかったので、特に311の津波被害関係者と比べるとこんなんで被災者とか言うのもどうかと思う・・・というレベルではあります。だから普段はほとんど言わないんですよね。

でも、「微妙な被害」を受けた人の心の中に、一番遅くまで残る「わかりづらいネジレ」みたいなものが残る気もしています。「明確な被害」として共有できないから、逆に長いこと残っていく何かが。

今でも、世の中で活躍している人で、「特殊な個人的なコダワリ」の延長でかなり非常識なレベルのことをしている人・・の中に、あ、震災地域の人だ!って思うときがあります。

要するに、なんかこう「わかりやすい話」を頭と体が受け付けなくなるんですよね。または逆にいっそ「わかりやすい話」を非常識なレベルまで徹底的に体現していこうってなる人もいたりして、一筋縄では表現できないわけですが。「こういう話にしておけばみんなわかってくれるのに」っていうルートになかなか乗れない。

そういう話の中では、例えば震災というのはデジタルに「不幸」というラベルで一緒くたになる感じがするんだけど、でもそういうもんじゃないな、全ては日常だな、って思うんですよ。で、その日常は地続きにありとあらゆる人と共有されているものなんだな、というか。

何言ってるかわからないかもしれません。いや私もこの話をしだすとわからない話になっちゃうから普段はしないんですけど。

この話は、311の震災とかで、あるいは震災みたいな派手なものではないような、もっと目立たない不幸に人生の中で見舞われて、で、自分では全然OKと思って生きてるんだけど、なんかジトッと自分の中に残っている重さが取れなくて困っている・・・っていう人に、届けばいいなという感じで書いています。

初めての方もおられると思うので、少しだけいつもやっている自己紹介をすると、私は大学卒業後、マッキンゼーというアメリカのコンサルティング会社に入ったのですが、その「グローバリズム風に啓蒙的過ぎる仕切り方」と「”右傾化”といったような単語で一概に否定されてしまうような人々の感情」との間のギャップをなんとかしないといけないという思いから、「その両者をシナジーする一貫した戦略」について一貫して模索を続けてきました。

そのプロセスの中では、その「野蛮さ」の中にも実際に入って行かねばならないという思いから、物凄くブラックかつ、詐欺一歩手前の浄水器の訪問販売会社に潜入していたこともありますし、物流倉庫の肉体労働をしていたこともありますし、ホストクラブや、時には新興宗教団体に潜入してフィールドワークをしていたこともあります。(なんでそんなアホなことをしようとしたのかは話すと長くなるので詳細はコチラ↓をどうぞ。)
http://keizokuramoto.blogspot.jp/2012/07/blog-post_18.html

要するに、「わかりやすい話」の外側が常に気になっちゃう「体質」になってしまって、自分なりに「安心して踏める地面」を用意しないと自分の人生を前に進ませられないな・・・って思ったってことなんですよね。

「こういう形」での震災の響き方・・・を人生の中に持っている人を、私は沢山知っています。「行動」に表す人はそれほど多くないかもしれないけど、神戸で変わらず「日常」を生きている人たちの中にも、そういう「わかりやすい形の外側」に対する本能的な回路が開きっぱなしになっていて、どこか精神的に完全な安定感が得られずにいる人を沢山知っている。

逆に、私がやっていることが今よりももっとわかりづらい(今だって完全にわかりやすいものになってないですけど)段階で深く共鳴してくれた人の中に、そういう「震災体験者」が多くいたりもしました。お陰で凄く大きな会社のトップに繋いでもらえたり、テレビに出ることになったり・・・とか言う「つながり」を生み出してくれたりもした。

誰か一人が「わかりやすい話にならないもの」と向き合い続けて昇華していけば、「多くの人」が形にできずに苦しんでいた何かを「形」にすることができるようになるんだな、っていうような出会いを、今まで沢山してきました。

要するに「わかりやすい話にならない何か」も、時間かけて培っていけばだんだん「わかりやすい話」にできるはずだってことなんですよね。そうやって「わかりやすい話だけが通る世の中」の「外側」から、大事な何かを「繰り込んでいく」動きが今の世界にはとても必要なことなはずで。

最近自分は、あまり「不安定な地面」のことを考えなくなったんですけど、それは自分がやっていることが結構「わかりやすい話」になってきたな・・・世の中と自然に共有できるものに育ってきたな・・・と思っているからなんだと思っています。

世の中の「わかりやすい話」に違和感があって、常に自分が踏んでいる地面の不安定さに悩んでいる多くの人にとって、一人そういうチャレンジをする人がいると、「何歩かでも踏みやすい地面」になっていく・・・はずだと信じています。

311の震災は、ちょっと117とは規模が違うんで、そう簡単なことではないかもしれませんけど。

でも311や117は、911やフランスのテロ事件みたいな「敵」がいないことで共通してるんですよね。

「わかりやすい話」に回収できない色んな感情が、「敵」が見つからないがために内向していって、地味に放っておかれている・・・ということは、311でもあるんだろうと思っています。

もちろんそこで、何らかの「敵」を設定して解消するってのもアリだとは思いますが、そういう話に載せられるものと載せられないものっていうのは最後までありますからね。

そういうあなたに届けばいいと思って言うんですが、あなたの中にあるその「わかりやすい話にならないもの」を、あきらめないで時間をかけて「共有できるもの」にしていって欲しいなと思います。

そうはいっても人間は日常を生きなくちゃいけないので、だんだんとそれを捨てていかざるをえないんですが、そういうものへの感度の扉を閉じきらずにいれば、捨てた分は誰かが拾ってさらに「先」まで繋いでくれるはずだし、それがだんだん積み重なると、どこかの時点で結晶になって広い範囲に共有できるものになるはずで。

で、その「あたらしい結晶を創りだしていこうとする動き」に参加している人が、「ああ、これをここまでこだわってやれてるのは震災あったおかげだな」ってなる時に、「震災の傷」は「一番わかりづらい部分」まで含めて昇華していくんだろうと私はずっと思って生きています。

だから最終的には、「震災あってよかったね!」ってなれるようにしよう、っていうのが、震災に生き残った日本人の最大の鎮魂作業なはずなんですよね。

倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
・公式ウェブサイト→http://www.how-to-beat-the-usa.com/
・ツイッター→@keizokuramoto
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