イスラム国人質事件に関連する安倍政権批判に盛り上がりについて、日本には安倍政権を一方向的に攻撃すればするほど安倍政権が過激にならざるを得ないメカニズムがあるので、もしあなたが安倍政権を本当に倒したいと思っていたり、あるいは一応支持しているけど時にやりすぎちゃう彼らを適切な方向に誘導したいと思っているなら、「こういう方向で押していくべきだ」という戦略について書いています。
第一回の記事はこちら。前回の記事はこちら。これは三回目です。(これ単体でも一応読めるようにしてあります)
前回は、「アンチ安倍」じゃなくて「ど真ん中のフェアネス」自体を旗印にできる論調が広く共有できていないと、日本社会は「アンチ安倍の批判」にどれだけ「真実」が含まれていても現実的に取り入れることができない構造になっているという話をしました。
では、その「ど真ん中のフェアネス」というのはどういうものなのでしょうか。今回はそれを日韓関係の問題に関連させて具体例を見ていくことにします。
3・リベラルにとって安倍政権と向き合うことはイスラム国と向き合うことと同じこと
日経電子版だけじゃあバランス悪い気がするから紙の一般紙も取ろうということで、妻がかなり熱いドラゴンズファンなこともあってウチでは中日新聞(東京新聞)を取っているんですが、その今年の1月13日の社説『反日と嫌韓止めねば 年のはじめに考える』に「おおおおお!」と大興奮してしまったことがあります。
ある意味結構地味な社説なんですが、「朝日より左」と言われる中日・東京新聞でこういう「日韓関係に関して徹底して中立的(つまり日本政府絶対悪・韓国絶対善ではない)」な立場の文章が書かれるようになったのは大きな「前進」だと思います。
私は以前「朝日新聞的なもの」にトドメを刺すための出口戦略というちょっと煽ったタイトルの記事で(それ以前からずっと言い続けてるんですが)まさに「こういう方向性」に日本の左翼が立っていければ、安倍政権の行き過ぎを本当の意味で抑止できる勢力に育つんだから頑張ってやってくれよ!という話をしていました。
この絵↑のようなポジションに「朝日新聞的なもの」が立っていると、
日本のナショナリスト
vs
(中国のナショナリスト+韓国のナショナリスト+日本のリベラル+韓国のリベラル+中国のリベラル)の大連合軍
的な不均衡状態に置かれるので、安倍政権側にいる人は「やりすぎ」てでも押し返さざるを得ないし、韓国や中国のリベラルにとっては「そこまで言うと言い過ぎ」という領域になっても誰も止められない状況になって彼らの国では何か問題があっても全部反日叫んでガス抜きしておけばいいや!という不健全な風潮が放置されることになる。
こういう立場↑を一貫して取ってくれるような、つまり「アンチ●●」ではない「ど真ん中のフェアネス」を目指すリベラルが分厚く成立していけば、各国のナショナリストも過激さを必要としなくなるし、彼らの自浄作用として「ヘイトスピーチ的なものは見苦しいからやめなさい」という動きも出てくるようになるんですよね。
で、中日新聞の社説は「まさにそういう記事」ですよね?これはもうほんと、地味だけど「ついにこういう時代になったなあ!」と私は凄く嬉しい気持ちになりました。いまだにその紙の新聞を大事にとってあるぐらいです。なんせこのことを理解して欲しくて本を書いたりブログ書いたり・・・をして幾星霜、最初は「これを一体的に言っていけばきっとすぐみんなわかってくれるに違いない!」と思っていた気持ちは裏切られ続けてスネる一歩手前みたいになってたんですからね!
前述の私の記事自体ネットのあっちこっちに配信されているのでそれを読んで下さったのかもしれませんし、あるいは単に時代がそこまで煮詰まってきたから起きた自然的な変化なのかもしれませんが、とにかく仄かに見えてきたこの「種火」が育っていって、「安倍派vsアンチ安倍」じゃない「本来こうあるべきでしょう?」という「ど真ん中のフェアネス」をみんなで共有できるようになれば、日韓関係はあたらしい調和の時代を迎えるでしょう。
こういう変化になっていくには、やはり「嫌韓ムーブメント」も過去に必要な時期があったんだろうと思います。その「発言方式」が意識高い系の文化からすると許されざるものだったとしても、それは「現行の意識高い系の文化」が持っている「不均衡」あるいは「人間存在への理解の浅さ」が、そういう形で噴出しているんだという見方もできます。
だからといってヘイトスピーチしてもいいってわけじゃないですよね。だからこそ、「ヘイトスピーチは許されないが、しかし全体の構造として不自然かつ問題があるものは正されなくてはいけない」という「ど真ん中のフェアネス」を求める動きを大事に育てていくことが必要なんですよ。
まだ全然この「ど真ん中のフェアネス」はそう広い範囲には共有できていないし、本屋さんに行けばかなり過激な「嫌韓・嫌中」本が溢れている状況ではありますが、ああいうのも「やりすぎ」ることによって「いくらなんでもこれはやりすぎだよね」という感情を広い範囲に広げ、結果として「最初はどうしても共有しづらいど真ん中のフェアネス」を分厚く形成していくための「最初の一歩」になっていると考えることができます。”尊王攘夷運動が明治開国政府を作った”ようにね。
さて、では、この件と今回のイスラム国の人質事件を比べて考えてみましょう。
イスラム国は、今我々が毎日ただ生きているだけで加担している「欧米由来の世界システム」が持っている「問題」を知らせてくれる存在なんですよ。欧米由来のシステムが持っている無理が、いろいろなアンフェアさを抱えていて、その不満を放出できる仕組みが「意識高い系の世界観」の中に見つけられなかったエネルギーが、イスラム国という形で、あるいは人質事件という形で噴出していると言える。
しかし、ヘイトスピーチがやはり許されないものであるように、比べるのもちょっとどうかと思いますが誘拐して脅迫して意に沿わなければ殺してしまうなんてほんと言語道断ですよ。そこは「一緒になってはいけない」。相手を刺激するなとか言うけど、やっぱそこは「断固として非難」するモードを失ってはいけないと私は思います。そこをナアナアにすると、ほんと「なめられてカサにかかって絡んでくる」んで、断固として非難するモードはやはり大事なんです。
日本国内における”反社会的勢力”さんだってそこのところをナアナアにした途端に果てしなく絡みついてきたりするんですよ。だからこそ、断固として「あなたとは違うんです」モードを維持することは凄い大事なことです。
つまり我々は、「ヘイトスピーチやイスラム国(あえて同列に並べますけど)」に対して、「気持ちは凄い凄い凄い凄いわかる!と思っても決して馴れ合わないし決して許さない」という態度はやはり大事なんですよ。
しかし、彼らは「そこにあるんだけど無視され抑圧されている問題」をシグナルとして表明してきているんだという意味での「敬意」を払って「理解」しようとすることは必要だし、できれば「包含」する「あたらしい世界観」を提示していく必要はある。
「保守」なら、「黙ってろ」でもいいんですよ。保守だから。でも「寛容の精神」を旨とするリベラルならば、「包含」する必要がある。「アンチ●●」では済ませられない、その意見が大きな社会的影響力を持っていっても、つまり「最先端の理性的で意識高いあなたとあなたの仲間の内輪話」を超えて「やっちまえ!ヒャッハー!」的な大量の人間の感情を吸い込んできてもちゃんと「ど真ん中」を保っていられる分厚い良識の共有システムを作っておくことが、実際にそれを広い範囲にうけいれてもらうより「前に」絶対的に必要なんですよね。
そういう意味で言うと、さらに不謹慎発言なことを承知でいいますが、
リベラルにとって「安倍政権と向き合う」ことは、「イスラム国と向き合う」ことと同じ
なんですよね。「現行の意識高い系の文化」が弾きだしてしまっている「生身レベルの問題」を、彼らは「シグナル」として提示してくれているわけです。そこに「意識高い系の正義」からすると「絶対悪」なものが含まれているのは当然なことです。だから「馴れ合ってナアナアに妥協しろ」と言ってるんじゃあない。批判するべきところはバンバン批判していい。
が、本当は「彼らがなぜそれをしたがっているのか」を「彼ら以上に真剣に考え」て、「自分たちが持っている意識高い系の文化」の中に「包含」できるように持っていくことが今求められているんですよね。
そしてそれは、「単純なルールを押し通すことが第一だったグローバリズム第一期」が終わりを告げ、そこに「個別具体的な現地事情をいかに入れ込んでいくか」が勝利条件となる「グローバリズム第二期」がはじまっている時代の変化の中で、日本が「自分たちの本来的長所を活かせる、潜在的に世界中の人が日本にその道を行くことを期待してくれている、そして他の国よりも日本が最もうまくやれる可能性がある」道なのです。
次回は、その「グローバリズム2.0」の時代の変化と、この「ど真ん中のフェアネス」を立ち上げることの諸問題について関わらせて話をします。
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長くなってきたのでアゴラでは分割して掲載します。一気読みしたい方はブログでどうぞ。
倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
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