暴力装置としての宗教

池田 信夫

オバマ大統領がIS(イスラム国)について「これは彼らの特殊な問題ではない。十字軍や異端審問の時代にも、キリストの名において人々がひどいことをした」と演説したことが「テロリストを十字軍と同列に置いた」と批判を浴びているが、これは彼が正しい。

ピンカーもいうように、人類史は暴力の歴史だった。本書もその歴史を踏まえた上で、宗教は暴力の応酬の中から生まれ、それをコントロールする装置として発展したという。


狩猟・採集社会は平等(全員が飢餓線上)だったが、農耕社会で定住するようになると、国家や階級が生まれた。大きな集団が定住して平和を守るには、襲撃してくる他の集団から自衛するための暴力が必要だが、それは他の集団を襲撃する暴力となり、国家の中で民衆を支配する暴力ともなる。

しかしあからさまな暴力だけでは、国家は維持できない。自国の暴力は正しく、敵国の暴力は不正だという信仰によって人々を動員する必要がある。こうしたイデオロギーを宗教の本源的な形態と考えれば、それは少なくとも農耕社会に入ってからは普遍的な現象である。一神教だけが暴力的だという通念には根拠がない。

しかし英語のreligionに相当する言葉は、ギリシャ語にもラテン語にもない。それを普遍的な教義の意味で使うようになったのは、プロテスタントである。彼らが自分たちの教義だけが絶対の真理だと考えて血なまぐさい戦争を続けた結果、教会が国家から分離された。政教分離や信教の自由は、このときの停戦協定のようなもので、表現の自由はその帰結である。

今のイスラムは中世の西洋と同じような状態であり、ISは十字軍とそれほど違うものではない。違うのは、キリスト教世界が莫大な犠牲の結果、宗教的寛容としての自由主義を学んだのに対して、イスラムはこれからそれを学ぶ途上だということだ。

だから一部の日本人が勘違いしているように、政治的な自由主義は「話せばわかる」と信じてみんなと仲よくする思想ではない。それはいくら話してもわからない人々が殺しあうことを防ぐために宗教を国家から分離し、その暴力性を抑止する思想だから、宗教の名において他人を殺す者は徹底的に排除しなければならないのだ。