法を超える「空気」の独裁 - 『法哲学講義』

池田 信夫
法哲学講義 (筑摩選書)
森村 進
筑摩書房
★★★★☆



ロシアで野党の指導者が暗殺された事件が話題を呼んでいるが、誰も驚かない。「プーチンならやるだろう」と思っている。ロシアは西欧とは違う専制国家であり、皇帝や大統領が法を超える権力をもっているからだ。

これはロシアだけの問題ではない。ケルゼン的な法実証主義(実定法主義)で考えると、実定法は数学の公理系と同じ無矛盾な体系だから、その正統性は論理で決定できない。平行線の交わる幾何学があるように、殺人の許される法体系もありうる。法の正統性を最終的に決めるのは主権者の意思であり、これは定義によって法を超える。

おもしろいのは、中国の法体系が極端な法実証主義だったという指摘だ。そこには韓非子のような法治主義はあるが、法が主権者(皇帝)を拘束し、個人が法によって守られるという法の支配はまったくない。西欧で法の大部分を占める民法も、20世紀までなかった。中国で財産権を守るのは、親族集団や「関係」である。

『礼記』に「礼は庶人に下らず、刑は大夫に上らず」という。刑法は大夫(支配階級)には適用されず、彼らは礼(道徳)でみずからを律するので、法は庶民の犯罪を禁止する刑法=「律」と、統治機構を定めた行政法=「令」しかなかった。

ロシアで大統領が法を超える主権者であるように、中国では皇帝(と官僚機構)が法を超える。こういう法治主義は本書も指摘するように、英米の法の支配よりはるかに古く、日本にも共通している。

「朝まで生テレビ」で私が「地域防災計画は再稼動の要件ではない」というと、「地元の気持ちも考えろ」と延々と感情論を繰り返す阿部知子氏の脳内には、法の支配という言葉は存在しない。

法の正統性を決めるのは主権者の意思だから、違いはその主権者が絶対君主であるか、議会であるか、それとも「地元の気持ち」であるかだけだ。日本では、いわば「空気」の独裁が支配しているのである。