博く学びて篤く志し、切に問いて近く思う

北尾 吉孝

先々月23日のブログ『リーダーとは育てずして育つもの』ではその冒頭、川田達男さん(セーレン株式会社 代表取締役会長 最高経営責任者)の「リーダーは育てられません」という持論を御紹介しました。そして川田さんは更に、「課長は課の問題を解決していくのが仕事です。皆が問題点を出してそれをスピード解決して行く。部長は部の問題を解決していくのが仕事。最前線で働く人間の意見を吸い上げて、それを次々に解決していくのが長の付く人間の仕事です」とも述べられています。


管理職の育成につきネットで検索してみますと、例えば「伸び悩む管理職の育て方」等々様々な記事もあります。しかし結局は育てるというのでなく、やはり管理職は育つのだと思います。自らが自分の使命を知り、自らを自分で築き上げねばなりません。自らを築くのは、自分以外にはないのです。故に先ずは「自得(じとく:本当の自分、絶対的な自己を掴む)」から出発し、「自分には如何なる天賦の能力が与えられ、どういう能力に欠けているのか」と己自身を知らねばなりません。然すれば自ずと自身の足らない所を補うべく、どういった人を周りに引き寄せたら良いか、あるいは引き寄せるため自分自身がどう在らねばならないか、となるわけです。

孟子は、どのようにして人が天子になるのかについて、「天授け、人与う」という言葉を残しています。皇帝のポジションも社長のポジションも部長のポジションも、どれも同じです。天が天命という形で授け人民が与うという形で、人は天子になる、指導者になると言っているのです。自分で天子になりたい、指導者になりたいと思っても、必ずしもなれるものではありません。逆に、天子になどなりたくない、指導者などに絶対になりたくないと思っても、そうならざるを得ないこともあります。このように考えると、之は天が与えたようなものなのです。

孟子は「人与うを忘れると、その民を失う。その民を失う者は、その心を失えばなり」という言葉を続けています。なぜ民を失うのかと言えば、民の心を失うからです。民の心とは、言い換えれば「人望」ということです。人望の源は、言うまでもなく人徳です。人徳のない人には、人はそのようなポジションを与えないのです。仮に人徳のない人が指導者の地位になったとしても、直ぐに組織は機能しなくなります。人徳がなければ指導者になりたいと思ってもなることが出来ず、仮に指導者になっても人徳がなければ退かねばならなくなります。そうしなければ、組織が持たなくなるのです。

『論語』の「子張第十九の六」に、「博く学びて篤く志し、切に問いて近く思う。仁其の中(うち)に在り」という子夏の言葉があります。之は、「博く学んで、志をしっかりと定め、疑問に突き当たったら機を逸せず人に教えを請い、現実の問題をじっくり考えれば、仁徳はおのずからそこに生まれる」という意味です。私自身も此の言葉を胸に刻んで頑張ってきました。結果として人を惹き付けられる人物に自分がなれたかどうかは、他人が評価することです。自分自身を磨かずしてリーダーになる資格などないことだけは確かです。

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