曽野綾子氏の「居住区」問題 --- 井本 省吾

アゴラ

少し古い話だが、作家の曽野綾子氏が産経新聞の2月11日付けに「労働力不足と移民」と題するエッセイを書き、新聞やネット上で大問題になった。


同エッセイは、南アフリカで白人の住むマンションに黒人の大家族が住み着いて水が出なくなり、白人が逃げ出したというエピソードを披露。その上で「人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい」と書いた。

これが「アパルトヘイト(人種隔離)政策を提唱している」「人種差別だ」と猛抗議を受けたのだ。

曽野さんの表現に誤解されやすい面があったことは否めない。だが、彼女が長年、人道支援活動のためにアフリカ諸国を何度も訪ね、現地の人々と深く交流していることは良く知られている。最も人種差別から遠い人間の一人であることは、彼女の読者なら良く知っていよう。

曽野さんは宗教や言語、生活習慣、所得水準の違う人が一緒に住むことは難しく、別にした方が生活は快適、少なくとも不便が少なくなる、と言っているに過ぎない。法律で居住区を規制せよ、などと言っているのではない。

実際、海外でも日本人が集まって暮らしている街はあるし、日本でも日系ブラジル人や中国人が集まって住んでいる街角はあちこちにある。

しかし、頑なな人権論者は片言節句をとらえて、集団的に攻撃する。この間のいきさつ、感想について曽野さんは「新潮45」4月号に連載エッセイ「人間関係愚痴話」に「『たかが』の精神」と題して、次のように書いている。

作家が人種差別などしていて作品がかけるか、と思うが、人権を口実に一人の人間を憎しみの対象にする過程がよく見えたのはいい体験だった。また個人を攻撃するイジメの仕組みも実感をもってわかった

明るい皮肉を込めた、曽野さんらしい人間観察である。ただ、こうは思う。外国人が短期間に多数移民して来ると、居住区を巡るあつれき、摩擦が高まるのは抑えられないと。

そこから、法的な規制で居住を隔離しなくとも、実態として居住が分かれ、人種、民族間の反発や紛争が起こる懸念も高まる。欧米で白人、黒人、アジア人が近接して居住し、不穏な空気が漂う様はしばしば報告されている。大量移民がもたらす負の側面だ。

日本はもともと移民が少ない。そこから不安の少ない、安定した社会が形成されている。その良さを安易に壊すことはやめた方がいい。

曽野さんは産経のコラムで、介護分野での外国人労働者の受け入れの必要性を指摘し、その上で「居住区の区別」を説いている。

だが、私はそもそも外国人労働者や移民の受け入れは慎重にし、抑え気味にした方が望ましいと思っている。労働者の一時的な受け入れはともかく、移民は制限した方が国内のあつれきをふやさないで済むと思うのだ。

介護分野での人手不足は徹底した省力化と自動化機器、ロボットの導入によって補う。また、介護保険料を上げて、介護職員の大幅な賃金上昇を実現、日本人の介護職員のなり手をふやす。もう1つ、高齢者で口で食物を食べられなくなったら、胃ろう、経管栄養などの延命措置はやめる。オランダなど欧州ではそうしている国が多い。

これらの対策で人手不足はかなり解消され、外国人労働者はそれほど活用しなくてもまかなうことができるだろう。

もちろん高度の技術、知識、芸術を持っている人が日本に入ってくることは日本経済、日本社会を活性化させる。だから、そうした外国人を中心に少しづつ受け入れるのが望ましい。そうすれば、日本語を理解し、日本人の生活習慣を身につけ、日本社会に溶け込んで行く。

つまり「郷に入れば郷に従う」外国人がふえて、あつれき、摩擦は生まない。テレビの出演者を見ても、実に上手に日本語を話し、見ぶり手振りまで日本人という外国人がふえた。彼らの多くは居住を日本人と別にしなくても、一緒にやっていけるだろう。

入ってくる外国人の人数を少なくし、日本社会に溶け込む時間的、空間的な余裕があることが、彼我の壁を低くし、混住の道を広げるのである。

いつまでも日本語が話せない人々が集団で住む巨大な外国人街があちこちにでき、日本人との間で緊張が高まる事態は避けるべきである。


編集部より:この記事は井本省吾氏のブログ「鎌倉橋残日録 ~ 井本省吾のOB記者日誌」2015年3月29日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった井本氏に感謝いたします。オリジナル原稿を読みたい方は鎌倉橋残日録 ~ 井本省吾のOB記者日誌をご覧ください。