下手をすると戦争にもなりかねない隣国同志の不仲の解決は、どこの政府にとっても最重要な課題です。
地理的には「一衣帯水」の関係にありながら、実際は「近くて遠い国」の日韓関係もその例外ではありません。
つい最近も、日本外務省HPの「我が国と基本的価値を共有する重要な隣国」と言う韓国に関する記述が「我が国にとって重要な隣国」に変更された事について、韓国外務省から変更の経緯の説明を求めて来たと言う報道がありました。
国家の「基本的価値」は通常、伝統や宗教等の「文化的側面」と「憲法」に示された国家の理念(文言のみならず法の適正な内容も含む)と言う「制度的側面」に表れますが、日韓両国は文化的にも制度的にも「基本的価値」を共有する国と言うには余りに違い過ぎます。
先ず「文化的側面」から見ますと :
「菊と刀」の著者として日本にも馴染み深い米国の人類学者ベネディクトは、神の戒律に反する事への強い罪意識が言動の規範となっている欧米文化を「罪の文化」と呼び、海に四方を囲まれた狭い国土で農耕を営み、他人の協力無しには生きて行けない日本人に怖いのは神や仏ではなく、他人の目であり、これが他人に恥をかきたくないと言う日本特有の「恥の文化」を生んだと書いています。
「恥の文化」のもう一つの特徴は、宗教、法律等の明確な原理原則を持った成文律ではなく「世の習い」と言う不文律である事です。
日本人には「世の習い」や「阿吽の呼吸」と言う曖昧(柔軟)で広範な行動規範は便利でも、外国人には理解し難い規範だと言う事を良く知っておかないと、国際化が進む世界で日本人が誤解される大きな原因になります。
新渡戸稲造が「武士道」を著した動機が、ベルギーの著名な法学者から「日本には宗教教育がない?? それではあなたがたはどのようにして道徳教育を授けるのですか!!」と問われた事であった事からも、日本人の規範の特殊性が理解できます。
それに比べ、日本と類似した自然環境を持ちながら、陸続きの列強に支配され続けて来た哀しい歴史を持つ韓国で生まれた文化が「恨(ハン)の文化」だと言われます。
「恨(ハン)の文化」の特徴については諸説ありますが、ある本の「朝鮮民族にとっての『恨』は、単なる恨みや辛みだけでなく、虐げる側である優越者に対するあこがれや妬み、悲惨な境遇からの解放願望など、様々な感情をあらわすもので、日本と韓国では『恥』の意味も多いに異なり、『恥=自尊心を傷つけられた』と考える韓国では、恥をかかせた相手を『恨む』ことは当然の帰結で、日本人には理解しがたいものがある」と言う記述が一番納得できました。
このように、日韓両国の文化的側面から見た価値観には大きな隔たりがあり、韓国(人)と接する際に「基本的価値を共有する」相手だと言う前提で話を進めると、大きな誤解を招く恐れがあります。
次に「制度的側面」から日韓両国を考察しますと:
先述したように、近代的立憲国家では国の理念を盛り込んだ「憲法」に「基本的価値」や「理念」を表現して、国民に遵守する事を求めるのが普通で、その遵守状況が民主主義の成熟度のバロメーターになります。
日本の憲法の遵守状況や国民の憲法へのコミット具合いを見ますと、政治や統治機構に無関心な国民性もあり、民主制度の恩恵だけは享受しながら憲法が役割を果たしていなくとも他人の目を気にして異論を唱えないと「不文律」の恥の文化が、「成文律」の憲法秩序を凌駕しており、民主主義の成熟度にはまだまだの観があります。
その一方、講和条約を結んで国際舞台に再登場した1951年から今日までの64年間の日本では、政治的騒乱による犠牲者はゼロと言っても良く、頻発する巨大な自然災害でも騒乱は皆無と言う世界でも類例のない平穏国家を生み出して来ました。
その背景にも法治国としての秩序より、世の中の目を気にして争いを好まない「恥の文化」の貢献が大きかったように思います。
このように、成文律である「憲法」の遵守で問題の多い欠点を、他人の目を気にして辛抱する不文律の「恥の文化」が補い、外見的には平和な立憲君主国の体裁を整えて来たのが日本です。
一方、韓国はと見れば、第一回の憲法が発布されて以来今日までの68年間のうち、実に45年間が強権独裁政権下に置かれ、1993年に退任した最後の軍人大統領の盧泰愚大統領に至る歴代大統領は、例外なくクーデター、暴動、流血事件等を経た政変により、追放、投獄、暗殺のいずれかの運命に会ってきました。
盧泰愚大統領以後も、本人の自殺や親族の逮捕など平穏な余生を送れた大統領は「ゼロ」と言う、実態は大戦後独立したアフリカ諸国に酷似した「民主国家」て、日本の対極に位置する国です。
以上、韓国が「日本にとって重要な隣国」である事は間違いないとしても、「基本的価値を共有する国」だとはとても言えません。
その意味で、外務省がHPの内容を「我が国と基本的価値を共有する重要な隣国」から「我が国にとって重要な隣国」に変更した事は正しいと言えますが、これだけ日本と価値観の異なる国を「基本的価値を共有する国」だと表現して来た事自体がそもそも誤りで、それが例え外交辞令だとしても酷すぎます。
日韓関係と言う微妙な問題ですので、日本人や自分の意見は極力避け、歴史上誰もが認める事実と欧米の意見を中心に「共通した価値観」の意味を探った次第です。
本題からは外れますが、如何なる理由があっても、隣国同士の日韓両国がいがみ合う事は、未来を担う後世(我々の子や孫の時代)にとっては大変な負担で、百害有って一利無しです。
この際日本は、東日本大震災や「おしん」で世界に鳴り響いた「我慢強さ(恥の文化)」の特徴を活かし、「相互信頼」の確立の為にも韓国の理不尽な非難に堪える「勇気」を持つべきです。
これは誰の為でもなく、日本とその未来を支える次世代の為に必要な事です。
それが出来れば、サミュエル・ハンチントンが「世界の七大文明」の中で唯一の「一国一文明」として取り上げた「日本文明」の特質を活かした快挙として、世界の尊敬を集めることは請け合いです。
それが無理なら、少なくとも韓国の挑発に乗ったり、相手の感情を逆なでするような言動は慎むだけの余裕を示すべきです。
私自身は「嫌韓派」でもなければ「親韓派」(韓流ドラマやKポップスなるものは、一度も見たこともありません)だとも思っていませんが、政治的には、日本国憲法の改正、集団的自衛権の保持、特定秘密保護法等々には原則的に賛成の立場を取っています。
但し、政界からの引退に際し「支那(中国)と戦争して勝つこと」が今の野望だと答えた石原慎太郎氏との絶縁宣言をしない安倍首相や自民党保守派に日本の将来を任せることは、ドイツ格安航空機を意識的に墜落させたアンドレアス・ルビッツ副操縦士に再び飛行機を操縦させる事と同じくらい危険だとも思っています。
又、韓国人に対する強い差別意識を持った自分自身の経験や在日問題の私見の参考までに、アゴラに投稿した昔の記事を添付しておきます。
参考:『在日韓国人の差別と日本人の対応』
2015年3月30日
北村 隆司