1944年10月19日、アメリカ軍のフィリピン進攻(King II作戦)を察知した日本軍はこれを阻止すべく捷一号作戦を発動。これに準じて小沢治三郎中将麾下の第三艦隊は瀬戸内海を出撃した。
空母瑞鶴と軽空母3隻を基軸とした小沢第三艦隊はアメリカ海軍の機動部隊への囮となり、アメリカ軍が橋頭堡を築きつつあるレイテ湾に突入予定の栗田第二艦隊に対するアメリカ軍航空戦力による攻撃を軽減する目的があった。
10月20日、小沢第三艦隊は大分基地から艦載機を116機収容。その内容は零戦52、爆装零戦28、天山25、彗星7、九七艦攻4であった。
10月24日、フィリピン沖に達した小沢艦隊はハルゼー大将麾下のアメリカ第三艦隊のタスクフォースを捕捉。同日午後にタスクフォースの第三群(空母レキシントン、エセックス、軽空母2隻、戦艦2隻、軽巡4、駆逐艦14)に対して艦載機による攻撃を敢行した。
攻撃に参加した日本海軍パイロットは戦果を「正規空母1撃沈確実、正規空母1隻大破」と報告したが、実際には空母エセックスに至近弾を与えたのみ。実際の戦果はゼロだった。
その一方で10月24日の交戦後、小沢第三艦隊の艦載機は当初の116機の内、零戦19、爆装零戦5、天山4、彗星1、合計29機しか残らなかった。このうち18機の直衛零戦を残し、その他の艦載機は訓練不十分により戦力にならないと判断され、フィリピンの陸上基地へ転属となった。
同じ24日、シブヤン海では栗田第二艦隊がアメリカ軍艦載機による猛攻撃を受け、戦艦武蔵が沈没した。
翌25日、小沢第三艦隊は三回にわたる艦載機による波状攻撃を受け、空母4隻の全てを失った。
レイテ沖海戦当時、アメリカ海軍の艦載機搭乗パイロットは平均して2年間の飛行経験を有しており、各パイロットは最低でも350時間の訓練飛行時間を経験していた。また米軍パイロットは、前線配備と本土の飛行学校を往復するローテーションを組むことにより休養の期間を確保することができたばかりでなく、個々の前線での実戦経験を知識・情報として組織的に共有できるシステムを構築していた。
一方日本海軍は真珠湾攻撃による太平洋戦争開戦時より5,200人あまりのパイロットを喪失していた。これは全パイロット数の42%であり、同期間に最も熟練を要する艦載機搭乗パイロットは100%を戦死させている。機材と燃料の不足から、新人パイロットは十分な空戦訓練を受けられず、前線配備の時点で平均200時間の飛行時間しか経験していなかった。またパイロットはいったん前線配備されたら戦死するまで前線に置かれた。
乾坤一擲の戦勝を得てから講和交渉を開始するという、彼我の戦力を冷静に分析比較することができなくなった上層部の責任回避の論理に引きづられ、戦果ゼロの攻撃に出撃させられた人々の犠牲から、今を生きる我々はどのような教訓を得ることができるのだろうか。
第一線を戦力外通告されたエライ人たちが精神論・建前論を振りかざし始めたら、日本人という集団はロクでもない方向に向かっている、ということだと私は思う。
総員退艦の直前、軍艦旗に敬礼する瑞鶴乗組員達