宮崎哲弥氏が週刊文春で連載しているコラム「時々砲弾」の4月16日号で、「戦争が起こったら国のために戦うか」という問いに対する日本人の回答を示している。
2010年調査の世界価値観調査(WVS)で、「はい(戦う)」と答えた人の割合が15.2%で、78カ国最下位だった。「WIN/ギャラップインターナショナル」が64カ国・地域で同様の調査をしたときも、日本は「はい」が10%で、やはり最下位だった。
ただ、WVS調査では「いいえ(国のために戦わない)」とはっきり拒否している人は38.7%で、全体の17位と上位ではない。一方、意思決定不能を示す「わからない」という回答者は46.1%で、78カ国で断トツだった。
この結果をどう見ればいいのか。「戦う」と答える人が最下位であることについて、宮崎氏は次のように分析している。
(第2次大戦の)敗亡による厭戦気分がいまだに国民の間に色濃く染み渡っている、とも捉え得るし、あるいは、勝利者である(米国などの--引用者注)「旧敵国」管理がなお行き届いている証左といえるかもしれない
概ね、納得の行く解釈だが、私はこれに加え日本人の平和志向と、軍事を米国に依存する属国心理が働いているとみる。「和を以て貴しとなす」平和志向は聖徳太子以来、日本人のDNAに刷り込まれている。
戦後、戦争放棄を謳った9条を含む「平和憲法」を作ったのは占領軍である米国の圧力によるものだが、それならサンフランシスコ講和条約で独立を果たした後に憲法を改正すれば良かった。
それをしなかったのは3分の2以上の賛成がないと改正できないというルールによる点も大きいが、同時に日本人の平和志向のもと、「米国が日本を守ってくれるというなら、その方が危ない目に逢わずに済むからいい」という米国への依存意識、属国意識が働いたからだろう。
江戸時代の町民や農民は「いくさはお侍様のする事」と考え、戦いは武士に全面依存していたという。当時の武力の統治者が江戸幕府であるとするなら、一般庶民にとって現在の統治者は米国に変わっただけというに過ぎない。
これに左翼・リベラル派の反戦意識が絡む。WVS調査で78カ国中17位ながら、「国のために戦わない」と意思を明確にした層が38.7%と、「戦う」意思を示した日本人(15.2%)の2.5倍もいるのはその証左だろう。第2次大戦に負けたことによる厭戦気分や日本人に「戦う意思」を持たせまいとする米国による「管理」が行き届いた結果でもあろう。
問題は「わからない」という回答者が46.1%と多く、78カ国で断トツだったという点だ。日本人の多くは自分の意思を明らかにしたり、自分の考えをまとめることが苦手だから。また、面倒なことの決定はオカミや組織のリーダーに任せる受動的な人間が多いから。そういう見方には一理も二理もある。だが、それだけではない。宮崎氏はこう診断する。
「戦争」という緊急事態の想定に関してすら、国民は受動的な反応しかできなくなっている……。「戦う」「戦わない」の意思を示し得ないのは、設問にリアリティがないと感じられているからである。そしてリアリティ欠如の理由は、私たちが、仮に命を懸けることになっても守り通すべきものを実感できていないからである。保守派は悲憤慷慨するだろうが、これが私たちの“戦後70年のリアル”なのだ
リアリティの欠如は確かだろう。だが、それだけだろうか。「戦う」とはっきり言えないものの、「戦わない」とも明示できないのは、「イザ国難となったら、やっぱり戦わざるを得ないのではなかろうか」という思い、迷いがあるからではないか。
自分の家族が蹂躙され、住み慣れた国土が荒らされ、他億に支配されるようなことがあれば、米国だけに頼ってはいられないと思う日本人がかなりいるのではないだろうか。戦後七十年の平和のもと、危急存亡の事態はリアルに感じられない。だから、戦うとはっきり意思表示できないが、イザという時を考えると、戦わないとも言えない。それが「わからない」の背景にあるのではないか。
以上は「独立自尊」を重視する保守派の端くれの希望的観測だろうか。
編集部より:この記事は井本省吾氏のブログ「鎌倉橋残日録 ~ 井本省吾のOB記者日誌」2015年4月10日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった井本氏に感謝いたします。オリジナル原稿を読みたい方は鎌倉橋残日録 ~ 井本省吾のOB記者日誌をご覧ください。