「罪」と「病」の間で揺れる「責任能力」 --- 長谷川 良

アゴラ

独週刊誌シュピーゲル最新号(4月4日号)に非常に啓蒙されるエッセイが掲載されていた。同誌のDirk Kurbjuweit編集次長の「罪と心」(Schuld und Psyche)というタイトルのエッセイだ。


エッセイは、ドイツのジャーマンウィングス機墜落(エアバスA320、乗客144人、乗員6人)をもたらした副操縦士アンドレアス・ルビッツ容疑者について、「彼は149人の人間を殺した大量殺人者か、それとも150人目の犠牲者か」と問いかけ、心理分析の発展に伴って社会の罪観が変わってきたと指摘している。

先ず、149人の犠牲者を出した墜落の主因とみられるルビッツ容疑者は責任能力があるか、という問題が問われる。容疑者が長い間、精神的な病に悩み、病院にも通ってきた。パイロット養成学校コース期間中、病のため中断せざるを得なかったこと、その病歴をジャーマンウィングス社の本社ルフトハンザ航空に報告していたことなどが明らかになるにつれて、容疑者には墜落の責任を担う能力がない、と受け取られてきた。

昔は、人を殺せば殺人者としてその責任を追及された。「目には目、歯には歯を」といった旧約聖書時代の掟はいきていた。特に、キリスト教社会の欧州では人間は原罪を受け継いだ罪深い存在、と教えられてきた。だから「罪」は明確だった。ちなみに、刑法上、責任能力ない人間は、14歳未満の国民と心神喪失者だけだ。

ドストエフスキーの長編小説「罪と罰」の主人公、貧しい元大学生ラスコーリニコフは、「自分のような選ばれた人間は社会の道徳を踏みにじっても許される」と考え、金貸しの強欲狡猾な老婆を「存在する価値のない人間」と見て、殺す。ドストエフスキー時代では主人公ラスコーリニコフは「悪人」だが、現代社会では精神的異常者とみられ、「病人」と判断される可能性が高い、という。

ジークムンド・フロイト(1856~1939年)から始まった精神分析の発展に伴って、「正常な人間」の定義が次第に難しくなってきた。実際、裁判では容疑者の精神鑑定書が判決の行方を左右することが多くなった。同時に、精神病の数も増えてきた。

例えば、ノルウエーの大量殺人事件(2011年7月)を思い出してほしい。オスロの政府庁舎前の爆弾テロと郊外のウトヤ島の銃乱射事件で計76人を殺害したアンネシュ・ブレイビク容疑者は弁護士に、「行動は残虐だったが、必要だった」と述べ、その犯行を後悔していないと告白した。同容疑者が正常な人間ではないことは明らかだ。実際、容疑者は偏執病精神分裂者(Paranoider Schizophrenie)という精神鑑定書を受けている。

ブレイビク容疑者が精神的異常者とすれば、同容疑者の犯行には責任能力がないことになる。すなわち、心理療法が発展した社会では、多く人を殺した人間ほど、異常な人間と診断され、その犯行に責任能力がないと判断されやすい。論理的にいえば、大量殺人者は罪が問われないことになる。ただし、ブレイビク容疑者の場合、「自分の犯行が異常な精神状況から生じた犯罪ではなく、確信に基づくものだ。自分には責任能力がある」と、自己弁護している(実際、大量殺人者の場合、裁判では「病気で全てが説明できない」と受け取られ、有罪判決が下されるケースが多い)。

それでは、149人の犠牲者を出したジャーマンウィングス機墜落の場合、副操縦士ルビッツ容疑者は責任能力がないとして、罪に問われないだろうか。エッセイの筆者は、「容疑者は自身が精神的病に罹っていることを知っていた。彼は多くの乗客が搭乗する旅客機の操縦桿を握ることは危険だと認識していたはずだ。容疑者はパイロットの職務を断念すべき責任があった」と指摘、「ルビッツ容疑者は精神的病に悩んでいたかもしれないが、犠牲者ではない」と主張している。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年4月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。