焼香を拒む韓国人の“病んだ情” --- 長谷川 良

アゴラ

“隠れキリシタン”という表現に倣うとすれば、当方は“隠れ韓国ファン”だ。日本の多くの文化遺産が朝鮮半島経由で日本に入ってきたことを知っている。朝鮮民族と日本民族には同一性と相違点があることも学んできた。それでも「これはどうしたことか」と思わざるを得ない出来事が16日、韓国メディアで報じられていたのだ。その話をする。


昨年4月16日、仁川から済州島に向かっていた旅客船「セウォル号」が沈没し、約300人が犠牲となるという大事故が起きた。船長ら乗組員が沈没する2時間前にボートで脱出する一方、船客に対して適切な救援活動を行っていなかったことが判明し、遺族関係者ばかりか、韓国国民を怒らせた。あれから16日で1年が過ぎた。

そこで朴槿恵大統領が同日、死者、行方不明者の前に献花と焼香をするために事故現場の埠頭を訪れたが、遺族関係者などから「焼香場を閉鎖され、焼香すらできずに戻っていった」という。死者や行方不明者の関係者から「セウォル号を早く引き揚げろ」といった叫びが事故現場から去る大統領の背中に向かって投げつけられたという(李完九首相も同日、沈没事故で多くの犠牲者が出た学校近くの合同焼香所を訪れ、焼香しようとしたが、遺族関係者から拒否されている)。

家族や友人の突然の死に直面した遺族関係者や遺体がまだ見つからない家族関係者の叫びは理解できるが、焼香に訪れた者を追い払うその行為に驚くというより、はっきりいえば“異常さ”を感じるのだ。

焼香を拒まれた朴大統領は現場周辺で国民へのメッセージを読んだという。大統領は、「突然家族を失った苦痛を誰よりもよく知っており、その悲しみが消えずにいつも胸中に残り、人生を苦しめることも自分の半生を通じ感じてきた」(朝鮮日報日本語電子版)と語っている。

愛する父母を凶弾で亡くした朴大統領のこの言葉を焼香を拒む遺族関係者はどのように受け止めただろうか。ひょっとしたら、大統領のメッセージすら耳に届かなかったかもしれない。自身の悲しみに没頭するあまり、他者の悲しい体験に同情する余裕すらなかった、といったほうが適切な表現かもしれない。

韓国人は情が深い民族だ、といわれている。他国に支配され、苦しい時代を長く経験した民族には悲しみが溜まっている。だから、その悲しい情が暴発することだってあるだろう。しかし、泣いている自分の傍に、同じように悲しみを味わってきた人がいることを忘れてしまうことが多いのではないか。

もちろん、個々の悲しみを相対的に受け取ることは難しい。「あなたの悲しみは私の悲しみに比べて……」といった理屈は通じない。悲しみは関係者にとって絶対的であり、相対的に評価などできない。それは分かるとしても、他者の悲しみに無頓着とも思える対応は正常とはいえない。自身の悲しみに理解を求めるのならば、他者の悲しみにも、理解する努力が必要だろう。

焼香は死者への生きている者の礼だ。焼香は、家族関係者だけではない。死者に対して礼を尽くしたい人は誰でも焼香が許されるべきだろう。その焼香を拒むということは、死者への冒涜にもつながる。別の世界に入った死者に別れを告げたり、追悼する時、生きている者はどのような理由があったとしてもその焼香を願う人を拒むべきではない。

朴大統領の焼香を拒んだ、というニュースを読んで、韓民族の情が病んでいる、と強く感じるのだ。韓民族は他者の悲しみへの連帯を再発見しなければならない。他者の悲しみを自身のそれと同じように感じることができれば、自身の悲しみは自然と癒されていくのではないか。

同じように、韓民族が戦後70年目を迎えた今日にあっても戦時の痛みや悲しみを癒せないとすれば、考えなければならない。清流の水がその新鮮さを保てるのは、常に流れているからだ。如何なる清流も留まれば、いつかは淀んでくる。同じように、韓民族の豊かな情も留まっていれば、時間の経過と共に変質してくる危険性がある。悲しみや恨みの虜になってはならない。悲しみを昇華すべきだ。その最初の一歩は、他者の悲しみへの理解を深めることだろう。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年4月18日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。