「謝罪」表明を儀式としてはならない --- 長谷川 良

安倍晋三首相の米議会上下両院合同会議での演説は大成功だった。産経新聞は「35回のスタンディングオベーションが沸き起こり、演説後は首相に握手を求める議員もいた」と興奮気味に報じていた。一方、中国や韓国メディアは予想されたことだが、「慰安婦への言及や過去の歴史に対する謝罪がなかった」という理由から批判的に報じた。日本首相の米議会演説の評価ですら国や立場によって二分するのだから、一国の歴史評価で見解が分かれ、対立するのは当然かもしれない。


ところで、中韓両国が日本側に頻繁に要求する「謝罪」は本来、「悔悛」という内的なプロセスを経て初めて外に出てくるものだが、両国が求める謝罪には、極言すれば、謝罪後、舌を出してもいいから、謝罪表明せよ、といわんばかりの不誠実さを感じる。

中韓は謝罪表明で何を期待しているのか。日本という国家からの謝罪表明か、安倍晋三という政治家の謝罪か、明確ではないのだ。韓国の一人のクールな政治家が「日本が謝罪表明したとしても韓国に何の利益となるか」と述べている。

デンマークの哲学者セーレン・キルケゴールは、「悔い改めは人間の内的な精神的プロセスから生まれてくるもので、最も痛みが伴うものだ」と述べている。だから、悔悛に基づく謝罪は本来、議会演説やインタビューで表明するものではない。「謝罪」を外的というならば、「悔悛」は内的だ。内的な「悔悛」があって初めて本当の「謝罪」が表明できる。

日韓中の謝罪問題をみていると、謝罪表明が政治家たちのパフォーマンスとなってきた感がする。日韓中の「謝罪」表明に関する論争は「謝罪」本来の意味を失い、形骸化してきた。その原因の一つは中韓両国が頻繁に日本側に謝罪を要求し、日本側がそれに応じてきたからだ。

真の「悔悛」なき「謝罪」表明は政治の世界だけではない。到る所にみられる。不祥事が発覚した時、会社社長がカメラのフラッシュを受けながら頭を下げて謝罪する。そして多くはそれで一件落着する。誰もその謝罪が悔悛に基づくものか、そうではないのかを質問しない。「悔悛」という内面問題はテーマとならないのだ。

ドイツ北部のリューネブルク(Luneburg)の地方裁判所で先月21日、元ナチス親衛隊(SS)のオスカー・グレーニング被告(93)に対する公判が始まった。同被告はアウシュビッツ強制収容所でナチスの戦争犯罪に直接関与していないが、「戦争の犯罪現場にいた」という理由から、その責任を問われている。

同公判に関連し、独週刊誌シュピーゲル最新号は「罪と悔悛」というタイトルのコラムを掲載した。エルサレムでナチス戦争責任を裁かれた軍指導者の一人、アドルフ・アイヒマンは、「悔悛は子供だけに意味がある」と豪語したという。アイヒマンはヒトラーの政策を信奉する確信犯だった。アイヒマンは悔悛しないので、謝罪を表明することはなかった。いい悪いは別にして、アイヒマンは首尾一貫していたわけだ。

「謝罪」が本来、内面的、魂の「悔悛」から生まれてくるとすれば、メディアはもはや謝罪表明云々を報じ、それで一喜一憂するのは止めよう。さもなければ、謝罪表明は益々、政治家たちの儀式となってしまうだけだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年5月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。