旧約の「妬む神」を聖書から追放? --- 長谷川 良

聖書は世界最大のベストセラーと呼ばれて久しいが、ドイツのプロテスタント教会(新教)では、天地創造から預言書まで39巻から構成された旧約聖書を聖典から排除すべきかで議論を呼んでいるという。独週刊誌シュピーゲル最新号(5月2日号)が報じた。


「旧約聖書」排除論の最大の理由は、ビックバーン、インフレーション理論など宇宙の起源を追及する学問が急速に発展する中、旧約聖書の最初の聖典「創世記」に記述されている、神が6日間で世界を創造したという天地創造説と現代の天文学の成果の間で益々不一致する点が増えてきたなどが挙げられている。

それだけではない。旧約聖書の神は「妬む神」であり、異教の神々を信じる民を躊躇なく抹殺する。そしてユダヤ民族の選民意識を煽る一方、女性蔑視から少数民族迫害まで、旧約の神は人権と少数民族、女性の権利を擁護する21世紀の社会では絶対受け入れられない、というのだ。だから「聖書はイエスの言動を記述した新約聖書だけで十分だ」という声が神学者の間で出てきたわけだ。

もちろん、この話はドイツの新教の教会の話だ。ローマ・カトリック教会(旧教)では旧約聖書の排除といえば、バチカン法王庁が腰を抜かして驚くというより、「聖典を汚すような要求をする聖職者や神学者は教会から即破門だ」と大声で激怒するだろう。歴代のローマ法王の中でも教会ドグマに拘らない南米出身のフランシスコ法王ですら、旧約聖書を聖典から排除せよ、といった超ラジカルな主張はしていない。

ドイツの新教は宗教改革者マルティン・ルターの伝統を継承している。ルターは「キリスト教の源泉は聖書にある」と主張し、ローマの法王庁を中心とした固陋な教会の教えや伝統を批判した。そのルターの改革を受け継ぐ新教で今日、皮肉にも旧約聖書の排除の声が出てきているわけだ。ちなみに、ドイツでは北部を中心に新教が、南部中心に旧教が強く、新旧教会の勢力はほぼ均衡している。

そのドイツの半分を管轄する新教教会で旧約聖書の排除の声が出てきたのは決して偶然ではない。女性の聖職者を叙階し、同性愛者に対して寛容な姿勢と取るなど、プロテスタント教会はこれまで時代の要請を常に積極的に受け入れてきた。新教の聖職者の中には、天国、地獄、煉獄の存在を信じていない者が少なくないという。

新教の信者が増え、教会に活気が溢れている、というのならいいが、1970年以来、教会脱会者数は約800万人で、カトリック教会のその倍以上だ。教会の社会的影響も年々縮小してきた。ここにきて、新教の神学者 Notger Slenczka氏が、「旧約聖書を排除せよ」と叫び出したわけだ。あたかも、旧約聖書が教会の発展を妨害しているといわんばかりにだ。

ユダヤ民族の歴史が記述された旧約聖書を読み切るためには確かに忍耐が必要だ。その上、内容はインターネット時代の21世紀にはマッチしないものが少なくない。だから、排除しようという考えは一見、合理的な判断だが、聖書が新約聖書だけになり、読みやすくなったとしても、去った信者たちが教会に戻ってくるだろうか。

聖書は新旧66巻から構成され、神の創造から始まり、選民ユダヤ民族の歩み、イエスを迎えるまでの歴史、そしてイエス誕生と十字架の苦難の道、そして最後に、再臨の預言へと繋がっている。新旧66巻は一つの大きなテーマのもとに展開されていることが分かる。

その聖書から旧約聖書39巻を排除した場合、神の創造目的、失楽園の話を失うことで、聖書の人類救済というテーマは意味をなさなくなる。ひいては、救い主イエスの使命は一層、曖昧模糊となってしまうだろう。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年5月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。