最近よく目にする安倍政権批判のひとつに、「いま日本は戦前と同じ道を歩んでいる」というものがあります。
(ミュンヘン会議でのヒットラー総統とチェンバレン英首相)
「大東亜共栄圏」やら「八紘一宇」のスローガンの下に、周回遅れどころか最終ラップの鐘がなった後に植民地帝国レースに無謀にも背伸びしてなし崩しに参加したあの当時の日本と、いま東アジアの各国がリアルに感じているセキュリティー・リスクに対応した安全保障政策を単純に同一視するロジックの跳躍ぶりに、戦後70年の平和ボケを感じてしまうのは私だけでしょうか。
上記のような感想だけでしたら一筆啓上するに及ばなかったのですが、最近「The War That Ended Peace」という第一次世界大戦の起因を分析する作品で注目された歴史学者、マーガレット・マクミラン博士の講演を聞く機会があったのと、「Just War(正戦論)」という議題のラジオの評論番組を聞くに及んで、ヨーロッパにおいて第二次世界大戦の勃発前夜にも「いつか来た道」論がまかり通っていたことを想起したので、自分なりの考えをまとめて「アゴラ」に載せてみようと思い至った次第です。
そういえば、つい先日5月8日の「VEデー」、つまり「ヨーロッパにおける連合国の戦勝記念日」がありました。
いまでこそヨーロッパにおける第二次世界大戦は「ナチス・ドイツの暴虐・圧政に立ち向かった戦争」ということで正当化され説明されていますが、ナチス・ドイツがあそこまで非道で狂っていたことが判明したのは戦争終結直前に連合国軍が強制収容キャンプを発見、解放した時。1939年の開戦当時の連合国のリーダー達、とくに1940年と41年のほとんどにおいて孤独な戦いを強いられたイギリスの首脳にとって、対独戦争に踏み切らざるえなかった決断の背景はそう単純ではなかったのです。
1938年9月30日、ミュンヘン協定でチェコのドイツ系人口が多数を占めるズデーテン地方の併合を認め、その後のチェコそのものの併合も看過したものの、「ポーランドはダメよ」と妥協に妥協を重ねざるを得なかった当時イギリスのチェンバレン首相の弱腰外交の背景には「ヨーロッパ中央におけるドイツ勢力の拡大はヨーロッパ、ひいては大英帝国の安全保障への脅威となる」という戦争不可避の論法が、まさに第一次世界大戦前夜の「いつか来た道」だったことにあります。
第一次世界大戦ではフランツ・フェルディナンド大公夫妻暗殺を端緒にオーストリアのセルビア侵攻がキッカケとなり、ロシアが動員を開始。これに対抗してドイツも動員令を発令。フランスも臨戦状態となり、あれよあれよと言う間にイギリスも参戦。4年余りの間ヨーロッパに戦乱と殺戮の嵐が吹き荒れる結果となったのです。
チェンバレン首相の頭の中は、このドミノ倒しのような世界大戦への道を再び進むことをなんとかして避けたいということでいっぱいでした。
ナチス・ドイツのファシスト政策やユダヤ人差別政策、そして強制収容所に代表される不平分子への弾圧はもちろんそれなりに批判されてはいましたが、「イギリスだってボーア戦争の時はボーア人を強制収容所送りにしてたじゃないか」とナチス・ドイツに反論されました。1902年に終結した南アフリカのボーア人(オランダ系植民者)相手の戦争は、当時の人たちにとってはまだ30年ちょっと前の記憶だったのです。
またナチスのユダヤ人殺戮が本格的に始まったのは悪名高いヴァンゼー会議においていわゆる「ユダヤ人問題に関する最終解決」が決定された1942年1月以降のことで、これは占領下のヨーロッパが「戦争の霧」の向こうに見えなくなっていた時のことですから、連合国側としてはその詳細を把握できていませんでした。
こうした中で対独強硬路線を主張していたのが、当時イギリス政府与党であった保守党内で不遇をかこっていたチャーチルです。当時のチャーチルは、もちろんナチスの圧政に反対するという視点はもっていたものの、政府与党内で村八分にされていた原因の大きな要因が「インドの自治権を認めることに絶対反対」という、時代の流れに逆行する持論を撤回しなかったことにあるのですから、後世「自由主義のチャンピオン」とされたそのイメージからはほど遠いものがありました。チャーチルの対独強硬路線の議論の根底にあったのは「ナチス・ドイツの勢力圏の拡大は外交努力のみによっては阻止できない」という、まったく第一次世界大戦の「いつか来た道」を踏襲する地政学的観点に立ったものだったのです。
結局、1939年8月にナチス・ドイツとソビエトがポーランド侵攻を開始し、イギリスとフランスはやむなくドイツに宣戦布告することになります。しかし「いつか来た道」を意識する両国はドイツ国境を挟んでにらみ合うのみで、その状況は「Phoney War(まやかし戦争)」と揶揄されました。この状況は8ヶ月も続くのですが、ドイツのノルウェーに侵攻(1940年4月)、そして1940年5月にドイツ軍がオランダ、ベルギー、フランス国境を越えて攻勢に出ることにより本格的戦闘が開始。チェンバレン首相は直接的にはノルウェー戦の失敗の責任を問われ退陣。宣戦布告以来、海軍卿として入閣していたチャーチルは、ノルウェー作戦の当事者であったにもかかわらず、「戦えるリーダー」として組閣の大命を受けることになりました。
この時、後任の人選にあたってチェンバレンは自身の政策を踏襲する外務大臣ハリファックス卿を暗に推していましたが、貴族院議員であった彼が辞退したことでチャーチルに白羽の矢が立つことになったという裏事情があります。ハリファックス卿が後日フランスが降伏した折に対独講和に応じないチャーチルを狂人呼ばわりしたことを考えると、歴史とは本当にミズものだなという感慨がわきおこります。
窮地に陥ったイギリスはチャーチルの下で土俵際でふんばり、結果として地球の裏側で日本の機動部隊が真珠湾を攻撃してくれたことによりアメリカの参戦を得て戦勝国となり、ナチス・ドイツに徹底抗戦した国という後世にのこる栄誉に浴することができたのです。
もっともチャーチルは「戦後復興の任にあらず」というイギリス国民の残酷なまでに冷静な判断から1945年7月の総選挙に敗北。後任のアトレー労働党内閣も戦後の財政危機と、戦中・戦後にしょい込んだ対米借款の重圧から、インドを大急ぎで手放すこととなり、インド・パキスタン分離独立にともなう混乱中に起こった虐殺では100万人が犠牲となったといわれています。第一次世界大戦から委託統治していたパレスティナではイスラエル建国を目指すユダヤ人テロリストたちに追い出され現在の中東動乱に至るまでの禍根を残すこととなり、「せめてスエズ運河だけでも...」とスエズ動乱では踏みとどまろうと思ったところで、頼みのアメリカから引導を渡されて、かつて日の沈むことのなかった大英帝国は崩壊したのです。
閑話休題。
こうして第二次世界大戦前夜のヨーロッパの事情を鳥瞰してみれば、「いつか来た道」という安易な論法が、いかに現状を冷静に分析する目を曇らせていたかがわかります。
かつては「僕等の名前を 覚えてほしい 戦争を知らない 子供たちさ」とうそぶいて、戦前・戦中派の大人たちを揶揄していた世代の人々が、とつぜん軍服コスプレ姿で靖国神社に集まっている姿も奇怪・滑稽ですが、歴史を深く学ばず、現実を直視し分析することもしない人々が、よく考えもせずに安易な「いつか来た道」論法に飛びつく姿も、日本の将来に不安な影を落としています。
現自民党政権の方針に反対する人たちは、おそらく今後5年の政権寿命と思われる安倍氏個人をターゲットとした批判や、自分の頭で考えることをしない安易なレッテル貼りにおちいることなく、より高い視点に立った日本の安全保障政策・法制議論に参加してほしいものです。個人的には現状防衛技術の提供・共同開発という形で進んでいる実質上の防衛同盟が奇妙な利権化しないよう、また特にフィリピン向けの沿岸警備艇の提供をODA予算を迂回させて行われていることが今後の日本の援助外交にとって好ましくない結果をもたらすことがないのか、目を光らせて現政権を問い質すことを期待しているのですが、野党政治家のみなさんのレベルがそこまで達していないご様子で残念です。