マルティン・ルター(1483~1546年)が1517年10月31日、教会の刷新を訴えた「95カ条の議題」をヴィッテンベルク大学の聖堂扉に貼り出した。その瞬間、欧州の宗教改革の火が灯された。あれからまもなく500年を迎えようとしている。ルターの宗教改革500年を控え、プロテスタント教会ばかりか、ローマ・カトリック教会でもさまざまな記念行事が予定されている。
ルターが宗教改革を実施した背景については、多くの読者は世界史で学ばれたことだろう。バチカン法王庁を中心としたキリスト教会が贖宥状(免罪符)を販売し、巨額な資金を集めるなど、当時の信仰は形骸化していた。教会の刷新を願い、バチカン中央集権に反対し、聖書に信仰の基礎を置くべきだと主張して立ち上がったのがルターたち宗教改革者だ。ルターは「人間は善行によって義となるのではなく、信仰で義とされる」と主張(信仰義認)、教会や修道院生活ではなく、信仰を土台とした生活の重要性を指摘した。その結果、欧州教会はカトリック教会(旧教)とプロテスタント教会(新教)に分裂していったわけだ。
ここまで書いてきて、「イスラム教にはルターのような宗教改革者はどうして現れないのか」という不思議な疑問が湧いてきた。イスラム教は後継者に基づいてスンニ派とシーア派に大きく分かれているが、最後の預言者ムハンマドが語った内容をまとめた聖典コーランの基本的教えには相違はない。トルコのエルドアン大統領が「イスラム主義などは存在しない。存在するのはイスラム教だけだ」と主張し、イスラム教の普遍性を強調している。
日刊紙プレッセのコラム二スト、クリスチャン・オルトナー氏は15日付のコラムの中で、ソマリア出身の著名な政治学者アヤーン・ヒルシ・アリ(Ayaan Hirsi Ali)女史(オランダ元下院議員)の話を紹介している。女史はイスラム教が21世紀の社会に合致し、受け入れられるための条件として、「5カ条の改革案」を提案している。
それによると、①聖典コーラン逐語的解釈の中止、②シャリア中止、③来世を現世より重要視する世界観から決別、④精神的指導者のファトワー(勧告)宣布の権限廃止、⑤ 聖戦思想の破棄、の5カ条だ。オルトナー氏は、「これらが実行されれば、多くのイスラム教徒から『イスラム教ではない』と受け取られ、改革者は異教と酷評され、悪くすれば命も狙われる危険が出てくる」と考える。共産主義がその終焉前、「人間の顔をした社会主義」を標榜する共産党指導者が出てきたが、時間の経過とともに、その思想は消え失せていった。オルトナー氏は「イスラム教の基本的思想を排除すれば、そのイスラム教も『人間の顔をした社会主義』と同様の運命に陥ってしまうだろう」と予想している。
当方も一人のイスラム教徒を知っている。彼はイスラム教の大刷新を主張し、人権の尊重から女性の権利、少数宗派の自由など、その考えは普通のキリスト教徒のそれに近い。彼は「オーストリア・リベラル・イスラム教」を創設して、イスラム教の改革を要求しているが、イスラム社会では少数派に過ぎない。それだけではない、彼はイスラム教根本主義者たちから脅迫状を受け取り、命すら狙われているのだ。
コラムニストのオルトナー氏は、1400年間、改革されなかったイスラム教が改革されるとは期待できない、という結論に到達している。通称アラブの春(アラブの民主化運動)もそうだった。結局はイスラム教根本主義勢力が勢いついただけだった。ちなみに、イスラム教の歴史を振り返ると、イスラム復興運動(サウジアラビアのワッハーブ派)も生まれたが、あくまで昔の良き時代への回帰思考であり、刷新ではない。
21世紀に入り、イスラム過激テロ組織「イスラム国」が出現、国際社会を震え上がらせている。イスラム教へのネガテイブなイメージは更に拡大され、イスラム・フォビアは席巻している。当方は、「考え方によっては、『イスラム国』の台頭がイスラム教の刷新の絶好の機会となる」とみている。なぜならば、「イスラム国」のイスラム教が本当のイスラム教ではないと、多くのイスラム教徒は考えているからだ。
イスラム教が誕生して1400年が経過する。イスラム教のルターが台頭してきても不思議ではない。危機の状況は新しい刷新の絶好の機会ともなるはずだ。改革の使命を担った人物が生まれてくるのを期待したい。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年5月17日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。