ここ何回か、アゴラでの大阪都構想の投票結果「反省会」に私も参加させて頂いています。
私の提示している論点は、「票数の細かい分析」はそれ自体有意義ではあるが、そこからただ「対立を煽る」だけの言論になるんなら無い方がマシじゃないか・・・という話をしてきました。
ただ、最初にアップしてから皆様の議論を拝読するに、例えば比較的高齢層に反対票が多かったことに対して、
・若年層の投票率を上げるにはどうしたらよいか?
・「世代間の一票の格差問題」として扱う制度改革を目指す発想
など、そういう理性的な議論に向かうのであれば、「その分析」も意味があると考えるようになりました。
しかし、依然として私が問題としたいのは、
・「高齢者は自分たち”だけ”のことを考えて行動して当然」という前提がこういう「分析」には含まれている(というか分析すればするほど無意識に強化されてしまう)
ことで、その結果、
・反対が多い多いという70代でも4割弱は賛成している(60代にいたっては賛成多数)事実自体が、論者の頭の中から消え去ってしまいがちなこと
です。
「老人死ね!」と思い続けていると、生きている70代の老人の100%が絶対反対の不退転の決意をしているかのようなイメージが形成されてしまいますが、それは事実に反するだけじゃなくて、今後どういう改革を起こそうとするにしろ「障害」をより大きくしてしまう態度であると私は考えます。
「あんたら老人は自分さえ良ければいいっていう投票しかしないでしょう」という態度で向かうと、そういう反応が返ってきがちです。しかし、『次の世代のために、今どうかこれだけの分は我慢してくれ!』という敬意を持った言説が増えていけば、「そうか、わかったでぇ!」と思う人も増えます。
理想論過ぎると思うかもしれませんが、しかし「そういうムード」を作っていくことが結局一番の近道であり、そうやって「ほんの1万人の上乗せ」があれば可決されていたのだということを、我々は忘れてはいけないのではないでしょうか。
と、言うわけで、分割掲載の最後の章、「全力で押し合う両派」が押し疲れて調和に至るような、そういう『細雪』的決着について、一度考えてみたいと思うわけです。
ミクロな分析に熱中していると、木を見て森を見ないことにもなりかねません。時に一歩引いて、
「みんながええようにいったら、ええなあ」
という初心からスタートすることが、我々には必要なことであります。
これは三回目なので、初回から読みたいかたはこちらからどうぞ。
3・「細雪的調和」のタイミングを両派で睨みながら押し出して行こう
谷崎潤一郎の『細雪』という作品をご存知でしょうか?
インテリで日本文学好きのガイジンには、「Makioka Sisters(細雪の英題)」がサイコー!って言ってる人を結構見かけますし、あの「日本文学はほとんど読まずに生きて来た」と公言する村上春樹氏も「何回も繰り返し読んでしまった」とどこかで書いていました。
(私は文学のプロでもないのに知ったようなことを語ってしまいますが)例えば南北戦争後の南部アメリカとか、ラテンアメリカの奥地とか、滅び行くアジアの王朝とか、日本のメチャクチャ田舎の村とか、そういう「現代文明によって消え去っていく因習の世界」の中にある人たちの「生き様」をそのまま克明に描く美しさ、というのは、1つの「純文学」の大きなテーマの1つらしいんですね。
細雪は、太平洋戦争開戦前後ぐらいの時期の、「大正時代は大阪船場で物凄く名の知れた商家」だった家に育った四姉妹が、その「船場の商家」の文化が滅び行く時代の中で、三女と四女の結婚相手を探しながらアレコレする・・・というあらすじです。
正直、原作は「筋書きらしい筋書きもないのにあまりに長い」ので、私は上巻の途中で挫折してしまったんですが、吉永小百合さんが出ている映画版が非常に有名で、これだと忙しい現代人でも楽しめる良作だと思います。DVDも出てます。
で、『細雪』はどんな話かというと、ようするに四姉妹の長女さんは、「古い考え方」に固執していて、「マキオカの人間ならこうでないとダメ」というのが強くあるんだけど、三女や、特に現代的な四女はそれが煙たくて仕方ない・・・というような人間模様が続くわけです。次女さんはなんとなく中立的。
三女・四女の結婚相手を探してるんだけど、「マキオカという家の、失われた過去の名声へのプライド」が邪魔をして色々とうまく条件が合わないまま、しかしお金はまあまああるから美しい着物に観劇に京都見物に・・・という平安貴族絵巻的な生活をしていたりするわけですね。
で、話として非常にツイストが効いてるのは、長女さんも次女さんも、「婿養子」を貰ってるんですよ。そしてどちらもサラリーマン。
実際には既に「マキオカの商店」は閉じてしまっていて、本家の長女さんも分家の次女さんも、そのサラリーマンの夫の稼ぎで暮らしてるんだけど、でも「マキオカの人間ならこうだ」というプライドは維持している。
で、こう書くと、ほんと「因習に囚われた嫌な人」って感じなんですが、でも婿養子に入ってる長女と次女の旦那さんも、それを「物凄くイヤ」とは思ってないし、昔からのマキオカへの奉公人だった家の人たちも、そこにそういう「プライド」を持って生きていてくれる人がいることで心の安定を得ている部分もある。
同時に、放っておくとどんどん「下流への競争」になりがちな、着物文化などの伝統工芸業界を支えているのが、そういう「旧家のプライドを引き受けて生きている人」であったりするという構図なんですよね。
つまり、「単に時代遅れなイヤな女を描く一面的な作品」ではないからこそ名作なんで、旧家の中に生きるありようが持っている「功罪両面をちゃんと描いているからこその滅びの美学」というわけです。
で、ここからがちょっとネタバレ注意なんですが、映画は既に3回ぐらい見ていて、毎回私が「いいなあ」と思うのは、最後の方で、長女さんの旦那さん(銀行員)が、東京へ転勤になるんですよ。
東京の丸の内支店長になるって言うんで、「サラリーマン文化」を共有してる次女の旦那さんは「うわー栄転ですやん!良かったなあ兄さん」みたいな感じなんですが、それに「マキオカシスターズ」はカンカンに怒ってしまうんですよね。
・「私は京都より東へは行ったことがないのが自慢やったのに」
・「マキオカの本家の人間が大阪におらんでどないすんねんな」
・「あんた、断るわけにはいかしまへんのんか?」
という感じで特に長女さんがずっと反対して、 で、婿養子だというのもあるけどそれなりに長女さんを尊重して生きている旦那さんはほとほと困り果ててしまうんですけど。
で、長い長い話のクライマックスが、結局長女さんが東京に行くことを受け容れる・・・という「え?それだけ?」のことなんですが、そのシーンが凄く「良い」んですよ。
なんか見ていて「じいいん」と来るものがある。ぜひ2時間ぐらいの映画(レンタルもあるはず)なんで味わってみてください。欧米にキリストの「許し」の哲学があるとすれば、東アジアにはこの「メンツを立て合う解決の知恵」があるぞ!というような・・・まあ大げさに言えばですが。
旦那さんも、「よう決めてくれはった!ありがとう!」って拝む感じだし、長女さんも「今まで苦労かけましたなあ」的な感じで頭を下げている。
あのシーンには「滅び行く世界側に確かにあった良識担保機能」に対して「市場側が敬意を表する」儀式的な価値が凄く伝わってくるんですよね。
で、両派の思いを存分に入れ込みながら、「これから忙しなるでぇ!」的な希望が満ちてくる、そういう「場」が生まれてきている。
もし長女さんが意地を張らずに最初からホイホイ転勤について行っていたら「守れなかった価値」があるんですよね。でも突っ張って突っ張って、でも色々な状況の変化があって、そしてあるタイミングで「時が満ちるように受け容れる」からこそ、お互いに「本質的な価値の共有」が生まれる形式が生まれている。
4・みんながええようにいったらええなあ
ここまでのメッセージを一枚絵にまとめると、以下のようになります(クリックで拡大します)。
そういう「細雪的な調和」のタイミングは、アメリカ一極支配が一歩ずつ後退する今後の世界の中で、一日進めば確実に一歩近づいてくる「状況」ですからね。
「見かけ上の対立」を繰り返しながら、我々は徐々に人類代表としてその「調和点」を目指して動いていくべき時なわけです。
最後のシーンで、長女さんが遠くを見るような目で
「みんながええようにいったら、ええなあ」
って慨嘆するシーンが私は凄い好きです。
今後も、日本ではまだ色々な「対立」が激化していくでしょう。「改革」を全拒否にすればするほど、日本が完全に閉じた孤絶的社会になることは不可能な時代的事情ゆえに「改革派」はより過激かつ無理やりな行動をせざるを得なくなってくる。
しかし、その「総体的な状況」を日本のインテリの集合体が理解しながら、その「細雪的調和点」を横睨みにしながら「しかし、あえてッ!あえて今は断固として反対するのだ!」という心の痛みから逃げずにいる時には。
橋下氏が残した「功」も「罪」も、均等に適切な評価を我々は与えることができるようになるでしょう。
橋下氏の「功」に注目したいタイプのあなたも彼の持つ「罪」の方について、そして逆に橋下氏の「罪」しか見えないあなたは、ぜひ彼の「功」の部分を自分の世界観の中に位置づけられるように持っていっていただきたい。
その先に、「漫画スラムダンクのラストシーンにおけるルカワと花道のパス」のようなタイミングは、必ずやってくるでしょう。
紙幅の問題で詳しく触れられませんが、その「新しい調和点」に導くことから、日本における「右傾化」の問題や、東アジアの平和問題、そして世界の「アメリカvsイスラム国的対立」などの問題について、「20世紀型の紋切り型の罵り合い」ではないかたちでの、「逆側の人間にも敬意を払える解決のありよう」が見えてくるのです。
そういうゴールについては、私の近著↓
をお読みいただければと思います。
では最後に、あなたもネットでの論戦にお疲れのあなたもふと冷静になって、関西の旧家の怖いお姉さんになったような気持ちで、遠い目をして、ご一緒に以下のようにご唱和いただければと思います。
みんながええようにいったら、ええなあ・・・
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それではまた、次の記事でお会いしましょう。ブログ更新は不定期なのでツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々チェックしていただければと思います。また、ご要望が多かったフェイスブックも始めたので、友達申請を頂ければ(明らかなスパム以外受け入れますので友達になりましょう)ツイッターと同じフィードを受け取っていただけます。
倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
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