プレジデントオンラインに今年2月、「世界から見た日本のビジネスマンのいい点、ダメな点」というインタビュー記事がありました。そこでは、「仕事に対する倫理観が、きわめて高いということ」・「フレキシビリティ、つまり柔軟性に欠けること」等が、日本人の「美点」・「問題点」として挙げられています。
先ず何処の国でも人は千差万別ですから、一概に日本のビジネスマンのこれといったステレオタイプの類があるとは、必ずしも言えないのではと思います。「日本の経営者は長期的視野に立ち、米国の経営者は短期的視野に立つ」とは予てよりよく言われてきたことで、経営という面ではそういう部分が見受けられるのも事実だと思いますが、私は一般のビジネスマンにあってどうこうという傾向は余り無いのではという気がします。
但し、米国を見るとそのアグレッシブネスは一つの特性と言えるようにも思われて、例えば「金儲けしてやるんだ!」と感じられるケースが彼らには結構ある一方、日本のビジネスマンはそういう意味でおっとりしているような部分があるかもしれません。とは言っても、日本人でもアグレッシブな人もいますから、その部分が日本のビジネスマンのナショナルステレオタイプかと言うと、よく分からないというのが正直なところです。
冒頭挙げた記事では上記に加え、「ビジネスの現場で英語を話せる人たちが圧倒的に少ない」として、日本人の「実務的なレベルでの語学力」も問題視されています。IMD(経営開発国際研究所)が一昨日発表した「2015年世界競争力年鑑」でも、日本人の語学力はビリから2番目であったようですが、之は之で確かに日本人の英語下手は事実でしょう。しかしビジネスマンとして如何なものかは、また別の話だと思います。
グローバルなビジネスをすると、肌の色や言葉あるいは顔付き等々全く違う人間とよく対峙します。国違えども本質的な人間性とは然程変わらぬものですから、普段の交渉同様のやり方で構わないと思います。
例えば白人に対し、英語で話さねばならないというプレッシャーもあって、中々自分の意見を十分言えない日本のビジネスマンも多いですが、そんなことを気にする必要は全くないと思います。相手は母国語ですから、英語が上手くて当たり前です。下手な英語で話していれば時に圧倒されることもありますが、そうしたことを気にし過ぎてはいけないと思います。必要に応じて通訳を付ければ良いわけですし、通訳を付けずとも相手と意思疎通できる程度であれば、それで足りる話です。
「辞は達するのみ」(衛霊公第十五の四十一)と『論語』にもあるように、上手い下手関係なしに言葉の意味が通じれば、それで良いことなのです。勿論、色々な知識を鏤めながら滔々(とうとう)と話が出来たらば、それに越したことはありません。しかしそれも、誠実さには及びません。言葉はたどたどしくとも、礼儀正しく謙虚に振る舞っている人は、人間として立派です。そういうふうに思われることが、対人交渉においては第一だということです。
江戸時代など昔の日本を訪れた外国人達は、日本人の礼儀正しさや謙虚さ、立ち居振る舞いに驚きました。日本ほどの文明国は無い、と本国に報告した人もいます。人間の本質というのは、そういった礼儀作法や立ち居振る舞い、言葉遣い等に表れるものです。嘗ての日本人は人間学を勉強していたが故、礼が素晴らしく出来ていたわけです。武士だけでなく農民でも漁師でもそういうことが、きちっと出来ていたのです。
要するに、そういうことさえしっかり出来たらば「四海(しかい)の内(うち)は皆(みな)兄弟(けいてい)」(顔淵第十二の五)、世界中の人が皆兄弟になり何処の国に行っても、それで十分通用するわけです。孔子は「言忠信(げんちゅうしん)、行篤敬(こうとくけい)なれば、蛮貊(ばんぱく)の邦(くに)と雖(いえど)も行われん」(衛霊公第十五の六)、つまり「言葉が誠実であって、立ち居振る舞いがしっかりしていれば、何処へ行っても通用しますよ」と言っていますが、之は正にその通りだと思います。
私自身も過去100か国以上の国をまわり10年間海外に住んだ経験がありますが、つくづく実感したのは結局文化は違っても本質的な人間性は変わらないということ。英語で言えば“Human nature does not change.”です。「きちんとしているな」という人もいれば、「駄目だなぁ」と思う人もいます。だから基本的な礼が出来ている人に対しては、「この人は中々立派だ」と国違えども分かるはずです。分かる人には分かる、ということです。言葉だけがインターナショナルでの商売の成否を、決めるものではないのです。
海外で働くビジネスマンは今後ますます増えてきましょうが、何処へ行っても人間の本質は変わらないということは、ぜひ知っておいて欲しいと思います。最後に残るは人間性がどうなのか、その一点であります。四書五経の一つに数えられる中国の古典『大学』に「修身、斉家(せいか)、治国、平天下(へいてんか)…身修まりて後、家斉(ととの)う。家斉いて後、国治まる。国治まりて後、天下平らかなり」という言葉があります。これ即ち、天下泰平を齎す一番基本になるものは、「身を修める」ことだというのです。
「人間力を高める」とは、正に天下泰平の根元となる「身を修める」ことに繋がっています。此の「身を修める」とは、為政者が国を治めるに限らず、経営者であれ一般のビジネスマンであれ、必要になることです。ビジネスを制するは究極の所、人間力の高さなのです。
故に私達は絶えず人間力を高めるべく、学んで行かねばなりません。何故ならば学びを深めて行く中で、一体人間力とは如何なるものかが分かってくると思うからです。最初から人間力が何であるかと分かった上で、学び始めることは有り得ません。学び続ける過程で人間力は何かと、気付いて行くということです。そして更には人間力を高めるに学びだけでは不十分であり、日々の実践を要すると気付いてくるものなのです。
毎日の生活あるいは仕事をして行く中で、様々な経験を積み事上磨錬する内に初めて、「人間力が高まってきたかなぁ」という実感が湧いてきます。また、「こうすれば人間力が高まるのだな」と掴めるようなってくるのが、その順序であろうかと思います。
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