腐敗の泥沼に陥った国際サッカー連盟(FIFA)の総会で29日、会長選挙が行われ、大方の予想通り、現会長のゼップ・ブラッター氏が5選された。欧州サッカー連盟(UEFA)のプラティニー会長はFIFA脱退の可能性すら示唆していたが、ブラッター氏の5選を阻止できなかった。
ブラッター氏に幸いしたのは、対抗候補者がカリスマ性の乏しいヨルダンのアリ王子1人だけだったことだろう。一方、ブラッター氏を支えたのはアフリカとアジアのサッカー連盟代表だった。会長選直前にFIFA幹部の腐敗・逮捕が報じられたが、ブラッター氏の牙城は崩れなかった。同氏は当選直後、「われわれは皆、完全ではない」と述べ、幹部たちが腐敗容疑で起訴されたことを弁明している。
目を韓国大手日刊紙「朝鮮日報」のコラムに移す。「徳を持って恨みに報いる」というタイトルのコラム記事(29日付)の中で、記者は、「人も国も完全無欠ではない」と書いている。そして「長所があれば短所もあるのは当然だ。大事なことは、相手の長所を正確にとらえると同時に、自分の短所を直視する勇気を持つことだ」と述べている。
上記の2件の共通点は、「完全」という言葉が出てくることだ。
当方は昔、この「完全」という言葉について考えたことがある。その直接の切っ掛けはモントリオール夏季五輪大会女子体操でルーマニアの妖精ナディア・コマネチが10年満点を挙げた時だ。テレビ放送の解説者が、「10年満点などは考えられません」とあっさり述べたのだ。体操演技で10点は満点だ。ルーマニアの妖精はその前にも数回、満点を挙げていた。それに対し、解説者は、「本来、完全は存在しません」と語ったのだ。当方は驚いた。
10点満点は完全だ。体操選手は限りなく満点、完全を目指して厳しい練習を繰り返してきた。そして満点の演技をした瞬間、「完全はあり得ない」と指摘されたのだ。選手は騙されたような気分になるかもしれない。「完全はあくまで目標で完全な演技はマシンでない限り、難しい。どこかミスがあるからだ」という一見、理性的な声が飛び出し、最終的にはその声が多数派となるのにあまり時間はかからなかった。
当方は当時、スポーツ・コラムを書きながら、「完全」とは何かと考えた。完全は目標だが、到達は出来ない、というのでは、完全を目標に掲げる意味があるか。スポーツの世界だけではない。どの分野でも目標は完全な仕事であり、中途半端ではない。しかし、同時に、「90%達成したのだから、満足すべきだろう」という声が必ず出てくる。私たちは他者だけではなく、自身に対しても詐欺行為をしているのではないか、と考えた。
FIFA会長の「われわれは完全ではない」という場合、「われわれは腐敗する可能性のある人間に過ぎない。腐敗したとしても驚くことはない」という意味が含まれている。幹部たちの腐敗事件に遭遇したFIFA会長の弁明の論理だ。誰かが、「それは責任逃れだ」と批判したとする。その時、「それではあなたは完全ですか」と聞き返され、答えに窮してしまうだろう。ブラッター氏一流の弁明だ。相手に反論を許さないのだ。もし、「私は完全だ」という人間が出てくれば、ブラッター氏ばかりか他の代表からも笑いがこぼれただろう。ブラッター氏はそこまで考えたうえであの台詞を吐いたのだ。
韓国のコラム記者の「完全ではない」にはブラッター氏流の反論を許さない狡猾さはない。完全は元々存在しないから、妥協を模索しようという現実的知恵があるだけだ。記者には「完全はない」という確信があるから、宗教者のように「完全」な世界を信じることはないのだ。
いずれにしても、「完全」は常に目標とされるが、達成されてはならない運命にある。実際、達成された場合、それ以上の目標はその瞬間なくなってしまい、途方に暮れてしまう。「完全」は室生犀星の「ふるさとは遠くにありて思うもの、そして悲しくうたふもの」の詩を思い出させる。「完全」は遠くにある時にしかその価値を発揮しないのだ。
ちなみに、イエスは「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(「マタイによる福音書」5章48節)と諭している。イエスは「完全」の存在を確信し、その意味を理解している。その点、「完全」を目標としながらそれを信じることが難しいわれわれとは違うわけだ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年5月31日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。