望まれる「分かりやすくまとめられた 日本近代史」

老いも若きも、現在の日本人は自国の近代史をあまり知らない。戦前は愛国心と戦闘意欲を鼓舞する為の「嘘で固めた皇国史観」を教え込まれ、戦後は腫れ物に触るような「左派系の人達の語る歴史(自虐史観?)」が主流とされた。いつも申し上げているように、歴史を語る時には、先ずは「本来一つしかない筈の事実関係」をきちんと確認した上で、自らの価値観に基づいてその評価をすべきなのだが、その事実認識が殆ど出来ていないのが現実である。


(因みに、韓国の人たちは事ある毎に「日本人は歴史を直視せよ」と説教を垂れてくれるが、それがどんなに滑稽な言辞なのかを彼等は分かっているのだろうか? 彼等は「自分たちが信じたい歴史」しか知らず、それが多くの場合一方的な語り口でしか語られていない事や、多くの誤りや誇張がそこに含まれている可能性がある事などは考えてみた事もないかのようだ。日本人も相当に勉強不足だが、彼等の平均的な勉強不足はそれに数倍し、まさに眼を覆うばかりだ。冷静な「事実認識」以前に感情的な「評価(良いか悪いか)」が先行しているので、これでは救いようがない。)

現在、安倍首相が日本の安全保障体制の見直しを提言し、その一部をなす「集団的自衛権」については、米国に対する配慮を早く形で示したい意向もあってか、政策の実行を急いでいるかのようだ。それに対し、多くの人たちが「これは重要な転換になるので、国会で徹底的に協議する必要がある」と言っている。それはその通りだから、是非とも徹底的に議論してほしい。しかし、野党のほうも「集団自衛権を認めたら(或いは「自衛隊」を「軍隊」と言い換えたら)、過去の日本のようにどんどん戦争にのめり込んでいく国になる」等という幼稚で荒唐無稽な事は言わないほうが良い。

しかし、安倍首相には、戦前の東條内閣の商工大臣を務めた祖父の岸信介の衣鉢を継ぐ意識もあってか、「過去の正当化(美化)」をしたい気持ちもあるかのように見受けられるので、それに対する危惧を持つ人が多いのも事実だ。従って、このあたりでもう一度、日本がどうして「あの無意味で悲惨な戦争」にのめり込んで行ったのか再度検証してみる必要はあるだろう。

現時点では、一部の病的な右翼系の人たちを除いては、殆ど全ての人が「日本はどこかで判断を誤り、間違った道に進んでしまった」と考えているだろうが、「あそこまで追い詰められれば、やむを得ない選択だった(悪いのは日本を追い詰めた欧米諸国のほうだ)」と心の底で思っている人たちも結構いる筈だ。しかし、これこそが実は大問題なのだ。誰が悪かろうと、「国内外の無辜の民を大量に殺し、悲惨な境遇に追いやったあのような選択」は本来絶対にやってはならなかったのだから、そんな「言い訳」をしてはいけない。「言い訳」を許す姿勢があれば、また同じ誤りを繰り返す事も防げない。

ざっくり言って、私の「事実認識」は下記の通りであり、これ以外の「事実認識」はあり得ないと考えているが、もし誤りがあれば指摘してほしい。

1)先の大戦の原因は、突き詰めていけば、陸軍の出先とそれに賛同する人たちが引き起こした「満州事変」に遡ると考えられる。そして、その「満州事変」が何故防げなかったかといえば、「一大決心をして、止むに止まれず身の丈を超えた『日露戦争』を戦ったのに、20万人を超える戦死者を出したこの戦争の見返りに得たものが『あまりに小さすぎる』と考えた民衆が激昂し、それが『世論』となって国の全ての層に無言の圧力を加えた故だ」と考えるべきだ(この民衆の怒りが、農村の窮乏や政財界の腐敗に対する怒りと重なって、過激思想をベースとする多くのテロを誘発し、良識的な政治家や現実的な軍人等の口を噤ませてしまったという事実も見逃してはならない)。

2)何故民衆が激昂したかと言えば、一言で言えば、事実を知らなかったからだ。「ロシア側が講和に応じず戦線がそのまま膠着していれば、それまで全ての陸戦と海戦に勝利してきた日本といえども、結局は国家として破産するしかなかった」という事実を、国民は十分には知らされていなかった。それどころか、本来は民衆を啓蒙しなければならなかった筈のジャーナリズムが「講和条件は屈辱的だ」と断じて、無責任にも「戦争継続」を大いに煽ったのだ。

(日本が日露戦争に踏み切らざるを得なかったのは、「南進の野心を隠そうとしないロシアが、一握りの朝鮮の王族(具体的には閔氏の閨閥)と結んで朝鮮全土を支配下に収めるのを防ぐ」という防衛的な理由によるものだったのだが、この頃にはそんな事はもうすっかり忘れられ、「満蒙の植民地化が日本の生命線」というキャッチフレーズが、あたかもそれが日露戦争の当初からの目的であったかのように、突然前面に出てきた。)

3)実際には日露戦争は極めて際どい戦争だった。ロシア側にとっては、日本軍の補給路を脅かす筈だったバルチック艦隊の全滅は全く予想外の痛手ではあったが、それでも「日本軍の前線を更に大陸の奥深くまで誘い込めば勝機はある」と見ていたし、戦争が長引けば日本の経済は持たない事も読めていた。この事については、米英両国の政府も日本政府も同じ認識だったが、日本の民衆やジャーナリズムだけは、そこまでの深読みが全く出来ず、個々の戦闘の勝利にのみ酔いしれていた。

4)米国大統領の仲介によって辛うじて締結されたポーツマス条約では、「ロシアから日本に割譲されるのは南満州鉄道と遼東半島の租借地のみで、満州全体の主権は引き続き清国に帰属する」事が再確認されており、「日露双方とも満州から撤兵、清国は満州については以後各国を平等に取り扱う」事が定められている。しかし、実際に日露戦争を戦った児玉源太郎などの陸軍関係者はこれを不満とし、彼等の考えを引き継いだその後の満州在住の陸軍関係者たちは平然とこの条約を無視し、「血で勝ち取った」と彼等が信じた「満州の権益」を、あくまで日本が独占する道を突き進んだ。

5)世論や陸軍を抑え、日本を「常識的な国際協調路線」の枠内に留めおく力を持った政治家の筆頭は伊藤博文だったが、不幸にして彼は韓国人の安重根に暗殺された(皮肉にも、その後の日本の右翼勢力の台頭を招き、最終的には日本を破滅させた最大の功績者は、この安重根だったかもしれない)。彼の死後は、国際協調路線派は徐々に力を削がれ、「米英の反発が必ずもたらすであろう将来の摩擦」を恐れる気持ちも次第に薄れ、「満州の利権を独り占めにしなければ、日露戦争に勝利した意味がない(戦死した人達に報えない)」と考える人たちが日毎に力を増して、この人たちが次々に「満州支配の為の権謀術策」を推し進める事になる。

6)ポーツマス条約の無視によって米英を敵に回すことを決めてしまった日本の一部の勢力は、当然の事のように米国の鉄道王ハリマンによる南満州鉄道の共同経営提案も拒絶してしまう。また「清朝による満州の主権を認めない」という姿勢は、清朝の後継者である中華民国の主権も認めないという姿勢につながり、これはその地に蟠踞していた張作霖などの軍閥のみならず、学生等を中心にその頃中国全土で澎湃として湧き上がってきた「民族主義」をも敵に回す結果を招いた。つまり「四方を全て敵にする」という非常識な国家戦略へと、日本は殆ど自動的に傾いて行った事になる。

7)こうなると後は一瀉千里。張作霖爆殺事件、柳条湖事件、錦州爆撃、満州国建国、熱河作戦、盧溝橋事件、第二次上海事変と、日本は次々に戦線を拡大、泥沼の日中全面戦争へと進んでいく。その一方で、孤立化を避けたい日本は、必然的に独伊のファシズム政権に接近、日独伊三国同盟を締結、また、フランスがドイツに降伏したのを好機ととらえ、ハイフォン港で行われていた蒋介石軍への米英の支援物資の供給路を断ち切る為に、仏領インドシナに進駐した。こうなると、もともと国内世論対策上「日本から戦争を仕掛けてくる」ように仕向けたかった米国は、当然黙っておらず、直ちに対日石油輸出禁止を行い、引き続いて最後通牒とも言えるハル・ノートを突きつけた。こうなると、日本には「対米開戦を決意し、真珠湾の奇襲攻撃に踏み切る」という選択肢しか殆ど残っていなかった。

8)この間、日本には「国を滅ぼす可能性の高い対米開戦だけは何とかして避けたい」と考えた理性的な人たちも結構多く、色々な局面で抵抗はしたが、大勢は変えられなかった。この人たちの考えを敷衍した政府の方針は、「畏れ多くも天皇陛下ご一身に帰属すると憲法に定められた『統帥権』の干犯である」として攻撃されたし、全ての「平和路線」は「軟弱」「非国民」と罵られ、テロの対象となるリスクにさらされた。また、憲法上の「統帥権」を持つ昭和天皇ご自身も、自分の考える和平路線を前面に押し出せば、軍部は天皇を廃位して、自分たちがよりコントロールし易い高松宮を擁立する恐れがあったので、迂闊には行動できなかったものと思われる。

9)この間、「対米開戦を避けようとするなら、中国からは全面的に撤兵するしかない」という事は多くの人たちが理解しており、実際にそれを主張した人たちもいたが、首相兼陸相の東條英機は、その都度、「そんなことをしたら、中国戦線で命を落とした数十万人の英霊に対して申し訳が立たぬから、それだけは絶対にできない」として強硬に反対した。このような考えは、「日露戦争の犠牲者に対して申し訳が立たないから、満州の権益は日本が独占しなければならない」と考えた昭和初期の軍人たちにも共通しているが、大戦末期に至ってもその呪縛は解けず、最後まで本土決戦を主張した人たちは例外なくこの事を口にした。

大体、以上のような事になるかと思う。

この間、一貫して見られた問題は、国民は多くの事に盲目で、且つ感情的、それに加えて、「天皇陛下」という言葉が一言出てきたら、「不敬」と批判される事を恐れて、それだけで口を噤んでしまうという事だった。言い換えれば、殆どの国民が「権威」と「空気」に盲従する事は出来ても、「事実と論理に基づいて自らが冷静に判断する」事は出来なかったという事である。

「現実的な問題」を冷静に語ろうする言葉は、ことごとく罵声と怒号にかき消され、広く一般国民の耳には届かなかったのも事実だし、その一方で、大きな声で語られる事は、概ね「不都合な真実を隠蔽した勇ましい美辞麗句」に溢れており、それがもたらす集団的な熱気の中で、人々は次第に自己を失っていった。戦後「一億総懺悔」という言葉によって「戦争責任は特定な誰かにあるのではなく、国民全てにある」という主張がなされたが、これは正しいとは言えないにしても、ある意味で本質をついた主張であったとも思う。

さて、それでは終戦から70年を経た今、我々はこのような歴史を如何にして学び、将来の日本を正しい方向へと導くことに役立たせる事が出来るのだろうか? 

何度も繰り返しているように、私は「最初の一歩は事実関係についての正しい認識を国民の全てが共有する」事だと思っている。その為にも、出来れば池上彰さんとか、誰か一般国民に「偏っていない」と信頼されている人が、「現代につながる日本の近代史」についての分かりやすい解説書を、まずは書き下ろして欲しい。100ページ程度でもある程度のメッセージは伝えられる筈だ(更に読み易い「マンガ版」があっても良いと思う)。そして、これから選挙権を持つ若い人たちには、是非ともこういう解説書をよく読んで、「自分自身の評価の基礎となる事実関係」を、先ずはしっかりと理解して欲しいと思っている。