自衛隊のリスク論で、リスクばかりを言い立てる野党に対する批判を先に書いた。その末尾に、「しかし『逆張り』もいけない」とも書いたが、やはり「逆張り」論調が散見される。
戦争や軍事を忌避する姿勢も問題だが、「覚悟はできてるんだ!」「死が怖い奴は辞めてしまえ」「リスクは当然。甘えるな」「犠牲によって日米同盟は強固になる」と言わんばかりの「逆張り」論者もまた問題だ。彼らは「リスク論者」に比べて自衛隊に理解がある、自衛隊のことを知っている、という自負があり、実際そうだろうと思う。本来は自衛隊の「ご贔屓筋」のはずだ。
ご贔屓筋は、これまで抑圧されて来た自衛隊を信じたい、肩を持ちたいという気持ちがあるのだろう。そのせいか、ともするとリスクの外にいる立場でありながら、なぜか自衛官になり変わって「覚悟はできてるんだ!」と言い募るケースがある。これが行き過ぎると単なる「逆張り」派になってしまう。
自衛隊のリスクは国民の安全と引き換えに高まる。どんなにリスクが高まろうとも、切迫した状況になれば負わざるを得ない。だがそのリスクを軽減するために政治が軍隊の装備の充実や武器使用権限の法整備をし、国民の受けるリスクとの関係を考慮したうえで、有事に対して高度な判断をする。高まるリスクをできる限り軽減するのが政治の役目で、針の穴を通すように難しいが、これが政治家と有権者(世論)の仕事だ。
自衛隊の海外での活動拡大を願う要因の中には、湾岸戦争時、人的支援をしなかったことで、「感謝国リスト」から外されたトラウマもあるようだ。そのため、自衛隊の集団的自衛権行使や海外派遣に最も積極的なのは外務省だという指摘もある(植木千可子『平和のための戦争論』、ちくま新書)。自衛隊が出れば、アメリカやその他の国との外交がやりやすくなるというわけだ。多少の無理をしてでも「行ってこい」となる。「覚悟しろ! 国際貢献、国民の安全のためだ! どんどん行かせろ」と政治家や官僚、世論が無暗に言いたてるようでは、旧軍の二の舞になる。
元自衛官で現参議院議員の佐藤正久氏も、かつて雑誌のインタビューで「自衛隊を活躍させるべきだと考える人たちの中にも、現場を踏まえない観念的な議論が出てくることがある」と述べている。これも「自衛隊をどんどん海外に出せ!」論への危惧だ。
「自衛隊の活動が広がる」「国際的に活躍する」だけで自衛官の名誉が保たれるわけではない。
朝日などは昨年の集団的自衛権議論のあたりから、「安倍政権の急な展開に不安を覚える自衛隊関係者」の声を報じ始めている。「戦争へ道を開いた」などと不安を煽っているのは朝日なので、マッチポンプではある。だが、自衛隊関係者(特に自衛官本人以上に家族)が心配に思う気持ちまでは否定できない。
「覚悟はできている!」と言いうるのは、本来は自衛隊OBがせいぜいだろう。それでもある自衛隊OBの父親が現役自衛官の息子と話している所へ、母親が割って入って「お父さんの時代とは違うのよ!」と諌める場面に遭遇したこともある。当然、葛藤や不安はある。
不安の最も大きなものは1.自衛官が死亡した場合、2.自衛官が他者を殺害した場合の世論の反応ではないだろうか。
「戦闘で死傷したら、国民から『日本のためによくやってくれた』と言ってもらえるのだろうか。それとも無駄死にだ、政策の誤りだといって政争の道具にされるのだろうか」「戦闘になって敵兵を殺傷した場合、世論はどのように自分たちを見るだろうか。日本の防衛、国際社会の安定維持のために行ったことが、国内では『殺人』などと非難を浴びることになりはしないか」
「その程度の覚悟はできている」「自衛官を舐めるな」と外部が言うのは簡単だが、自衛官の「覚悟」にこのような世論の反応までを含めるのは酷だ。家族への補償や処遇はどうなるのか、話し合われているのかどうかも分からない。しかも戦後の自衛官たちは、旧軍に対する戦後の手のひら返しを知っている。首相は靖国に参拝しない。南方に散った兵士は骨すら拾ってもらえない状況がいまだに続いている。国のために死んでも、手も合わせてもらえなければ、骨すら拾ってもらえないのか――これは自衛隊の士気に直結する問題と言っていい。
任務の拡大と同時に、自衛官の士気(誇り)と名誉も最大限に尊重されなければならない。このあたりの問題は政治のみならず、世論、つまり国民であるわれわれ自身が覚悟を持っておかなければならない。いや、本来は海外派遣が始まった段階で、直視しておかなければならない問題だったのだ。「自衛隊の努力と『運』によって死者が出なかったにすぎない」と自衛隊OBの志方俊之氏が産経新聞に書いている通りだ。
自衛隊は発足からこれまでの六十年余り、「軍なのか、そうでないのか」の境界線上で翻弄され続け、国民の中でも評価は定まらなかった。自衛隊に対する好感度は震災以降、上昇しているが、その大半はあくまでも「大変な時にやってきて何とかしてくれる組織」という印象であって「軍」としてのそれではない。
それは自衛隊を志願する人たちにも影響を及ぼした。過去に自衛官の募集業務を行う地方協力本部勤務の自衛官からこんな話を聞いた。
「自衛隊志望者は少なくないが、志望理由に災害救助や国際貢献を挙げる人が多い。確かにこれも大事な仕事だが、自衛隊の本来の任務は日本の防衛だ。それが分かっているのかどうか、ピンと来ていない志望者もいる」
尖閣事件などを経た今では、また状況は変わっているに違いない。だが、少し前までは、他の国であれば言わずもがなの「国防任務」をおおっぴらに宣伝できなかった。そのため「世界を舞台に活躍できる」国際貢献や、「国民のために働くことができ、感謝される」災害派遣を強調してきた面もある。自衛隊側の自重、自主規制だった面もあろう。
そうせざるを得なかったのは「自衛隊は憲法違反」「防衛費増大は隣国を不安にさせる」「暴走を許さない」「戦前に戻る」「北朝鮮や中国が仮想敵? 相手を刺激するな」などとしてきた論調が強かったからだ。その手の人たちは非現実的な論調はもうやめて、軍事の現実に立脚したうえでの、まともなブレーキ役として機能すべきだ。
そしてご贔屓筋は、真に自衛隊の味方であるためにも、贔屓の引き倒しにならないよう注意が必要だ。自衛隊には覚悟はある。自衛官の覚悟を信じたい、自衛隊はそんなにヤワではない、精鋭ぞろいだ、と擁護したい気持ちは十分わかるが(私も同じ気持ちだが)、一方で名誉の問題は置き去りになっているし、自衛官それぞれの思いや環境も違う。
言葉を借りれば、自衛隊を論ずるには「木も森も見なければならない」のだ。
梶井彩子