「天安門事件はもういい」という香港の学生たち

今年も6月4日がやってきて、去りました。

今年で26周年となる「天安門事件」。香港では毎年、事件の犠牲となった「同胞」を追悼するデモ集会がこの日にあり、直近の週末にはデモ行進が行われます。香港は中國国内では唯一、天安門事件関連でこのような示威行為が容認されている都市。参加者は例年数万人規模といわれています。
20150604023305


今年の集会は、去年3ヶ月近く続いた反政府デモのあとでもあり、どのようになるか注目されていましたが、去年の反政府運動では中心的存在だった学生団体が天安門事件追悼集会には参加しないと表明する意外な展開となりました。

Why Hong Kong students are boycotting Tiananmen vigil

学生たちの意見を俯瞰すると、彼らにおいては中國の民主化運動と、香港のそれを同一の線上に置くことに違和感を感じている様が見てとれます。

自分たちが生まれる前に起きた「事件」の犠牲者に対する「同胞」意識が薄れ、自分たちと価値観を異にする本土中國人たちと共に中国全体の政治改革と民主化を目指すよりは、自分たちが暮らす香港の民主化運動を優先する。こうした若い世代の香港人にとって、「天安門事件」は中國民主化運動のシンボルとしての意義を失いつつあるのでしょう。

香港人は勤勉です。そして香港の大学も総じてレベルが高く、職場における大卒新人の即戦力ぶりには目を見張るものがあります。しかしそうした仕事場では香港返還以前にオーストラリア・カナダなどに移住した華僑の次世代の里帰り組や、大陸からの移住組の人材との熾烈な競争が待ち受けています。そこで身を粉にして働いても、持ち家を買えない。なぜならば、住宅供給事情は不動産が下支えをしているローカル経済の意を汲んで、香港政府が恣意的に値を高止まりさせているからです。

香港で生まれ、香港で育ち、香港で働く香港人が香港で暮らしていく将来が見通せない。

「それでいい。深圳・広州でくらせ。」というのが北京の中央政府の意向ですが、それではそれこそ香港人の立つ瀬がありません。

結果として当然のように閉塞感が蔓延し、普通選挙を求めてデモ、共産党よりの学習カリキュラムに反対してデモ、あたかも毎週末ごとになにかのデモをしているかのような観があるものの、民主派立法府議員が掲げる民主化政策の実現の可能性はほぼ皆無。不平分子の代弁者であるはずの民主派議員でさえも、なにも結果を出せず学生たちをたきつけるだけ、と手厳しい批判の対象に成り下がっています。

「香港のショッピング街で見かけたマナーがなっていない大陸中國人」などというビデオ・クリップを、去年あたりからネットでよくみかけますが、この手の投稿をするのはこうした八方ふさがりの閉塞感に苛む香港人の腹癒せである場合がほとんではないかと思います。

「郷土愛」という感情は、人間のもっとも根本的な感情の一つです。郷土愛に根ざした帰属意識が社会形成の基盤となり、市民としての自覚と行動につながっていくのが本来あるべき市民社会の基本でしょう。郷土愛に犠牲を強いて、経済発展の恩恵をもたらした党への服従を通じて愛国心を強制する今の中国政府のやり方は、香港においては下手を打っていると私が感じるのは、「一所懸命」の日本人気質だけが理由ではないと思うのです。

「所詮、民族とは歴史の所産である」という故宮崎市定博士の言葉を思い出す時、中華同胞との歴史の共有を拒否し始めた若い香港人たちと中國の将来に一抹以上の不安を感じるのです。