衆院憲法審査会で集団的自衛権の行使容認について「憲法違反だ」と指摘した3人の教授のうち自民党が推薦した長谷部恭男・早稲田大学法学教授が読売オンラインに寄せた論文を読んだ。
題して「“国民の生死”をこの政権に委ねるのか? 集団的自衛権―憲法解釈変更の問題点」。要旨はこうだ。
従来の政府見解では、集団的自衛権の行使は憲法で禁じられており、行使するなら、憲法改正の手続に訴える必要があるとしてきた。だが、安倍政権は憲法改正せずに憲法解釈を変更しようとしている。憲法によって政治権力を制約するという立憲主義を覆すものだ
集団的自衛権の行使に条件を付ければ日本の安全を損なうことにはならない、と言われるが、この主張は、違憲であるはずのものを合憲にする論拠にはならない。「条件」というのも、現在の政府の政策的判断に基づく条件にすぎず、政府の判断で簡単に外すことができるということになり、これでは歯止めにならない
この人たち(安倍政権--引用者注)に国民の生死にかかわる問題についての判断を無限定なまま委ねてよいのか、そこまでこの人たちを信用できるのか
興味深い論考である。それなりに説得力もある。ただ読んでいて、憲法学者、あるいは法学者という人間はやはり「法律さえしっかり作って守っておけば、現実がどう変わろうと安全は保たれる」と考える人間なのか、という感想が残った。
法治国家にとって法律は大事である。だから、状況が変わり、国家と国民にとって現行法では不合理、不十分となったなら速やかに法律を改正するのが最善だ。
そもそも憲法9条は日本がGHQ(連合国総司令部)の占領下にあり、かつ米国が圧倒的な軍事力を持っているという特殊条件のもとで成立した条文にすぎない。そして、憲法9条の「戦争放棄」条項と「交戦権の否定」条項を、日本国民は……平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という憲法前文と合わせて素直に読めば、自衛隊の存在は違憲としか思えない。
しかし、第2次大戦後わずか5年で始まった朝鮮戦争をはじめ世界で噴出した数々の戦乱、厳しい現実を見れば、国家たるもの、とても丸腰で過ごせる国際環境でないことは明らかだった。だから、日本政府は米政府の要請もあって自衛隊を創設した。
本来それは違憲なのだから、自衛隊を造るのなら憲法を改正しなければスジが通らない。しかし、国会議員の3分の2以上の賛成がないと憲法改正はできないというGHQが押し込んだ規定のためにそれができない。日本の政界は自由主義陣営と共産陣営に分断されていたからだ。
そこで解釈改憲でお茶を濁し、自衛隊を造ったのだ。今や最先端の戦闘機や艦船を保有し、国際的には立派な軍隊である。安倍首相が「わが軍……」と言ったのは正直な発言だった。
長谷部教授は「集団的自衛権の行使容認は現在の政府の政策的判断に基づくものにすぎず、立憲主義を覆すものだ」などと批判するのなら、その前に現在の自衛隊の存在そのものが歪んだ解釈改憲にもとづく都合主義の産物であり、立憲主義を覆すものだ、と指摘すべきだろう。
それとも、現行の自衛隊は合憲だと言うだろうか。重箱の隅をつつくような法律専門家の議論はさておき、長谷部教授は普通の中高校生を納得させるだけの講義を展開する自信がおありか。憲法の基本は中高校生でも十分に納得できるものでなければならないのだ。
長谷部教授も戦争放棄、軍隊放棄、非武装中立などという絵空事の国家が成立しないことはわかっていよう。だから、自衛隊の存在を違憲とは言えず、「自衛のための軍隊は保持できる」という解釈改憲を認めているのではないか。
でも「それをさらに拡大解釈して集団的自衛権にするのはダメだ」と「待った!」をかけているにすぎないのではないか。つまり長谷部教授は中途半端なのだ。
野球にたとえると、従来の個別的自衛権の世界が既存のストライクゾーンだとすると、安倍政権の集団的自衛権は長尺バットなどを持つ選手がふえたので、ストライクゾーンを広くしたい、と言っているにすぎない。
これに対して憲法9条論者は「ストライクゾーン(軍隊保有)などどこにもない。野球(戦争)そのものをやってはいけない」と言っている。
長谷部教授が解釈改憲を認めるのなら、あとはストライクゾーンの広狭ということになる。中国が南シナ海の岩礁を埋め立てるなど露骨な軍事攻勢に出る一方、米国が軍事予算を削減し、内向きになっている今、安全保障環境は従来よりも日本にとって厳しくなっている。
日本が独力で自国を守らないまでも米国への依存度を下げ、日米が協力して難敵に当らざるを得ない状況なのは間違いあるまい。集団的自衛権の行使容認とはその環境変化に対応したものだろう。
対米依存度が減る分、自力判断で防衛を考える機会がふえるから、集団的自衛権の行使「条件」も国際安保環境の変化で変わって行く。
長谷部教授は「現在の政府の政策的判断に基づいて行使条件は簡単に外すことができるということになり、これでは歯止めにならない」と言う。だが、独立国家で民主的な選挙によって国民の負託を受けた政権なら、自前の判断で防衛政策、安保戦略を変えるのは当然だろう。
しかし、歯止めがなくなるわけではない。議会での議論や制約、マスコミの批判の目があり、危ない政策を続ける政権与党は次の選挙で洗礼を受ける。その歯止めは存外大きい。
長谷部教授は「(安倍政権に)国民の生死にかかわる問題についての判断を無限定なまま委ねてよいのか、そこまでこの人たちを信用できるのか」などと盛んにキャンペーンを張るが、その通り。信用できなければ、政権から引きずりおろせばいいのである。
一方で、国会で憲法改正を本格的に議論することが必要であり、それは歯止めを考えることにもつながる。
長谷部氏の論文は、日米同盟と集団的自衛権の関係の考察も面白い。
集団的自衛権の行使容認はアメリカとの同盟関係強化につながるとも言うが、「集団的自衛権は行使できない、だから協力できません」と言うより、「行使できるが、政府の判断で協力しません」と言う方が、同盟関係はよほど深く傷つく
「厳しい親がいるので、貴方の求めるような深い交際はできない」と言われるより「厳しい親はもういないが、自分の判断で深い交際はしません」と言われる方がよほど傷つくというわけだ。
男性の方に余裕があって、女性に魅力があれば、淡い交際でも「まあ、いいか」と付き合い続けることはある。しかし、長すぎた春は限りがある。いつまでも煮え切らない態度を続けられ、男の力も衰えて来ると、「自分に頼るばかりで自分の弱ったときに協力してくれない。こんな女といつまでも付き合っていられない」と三くだり半を突きつける懸念も大きい。
日本の協力が弱ければ、沖縄など日本の軍事基地を縮小し、グアムやオーストリアに拠点を移し、中国勢力の拡張を許すという事態が来ないとは言えまい。
現に、そうした兆候や動きはそこここに見られるではないか。
その時、日本は自力で安全環境を保持できるのか。集団的自衛権の行使容認とそれに伴う安保法制の整備とは、そうした現実の変化、方向を見据えた政策ではないか。一定のリスクを覚悟し、「深い交際」が必要な時もあるのだ。
1950年、日本が連合国と講話を結ぶ際、国連中心の全面講話とするか、ソ連不参加の単独講話とするかで国論が分かれ、東京大学の南原繁総長が全面講和論を唱えた。「世界と仲良くすべきだ」というわけだ。これに対し、単独講話を進めた吉田茂首相は「曲学阿世(学を曲げて世におもねる)」の徒の空論にすぎない」と切り捨てた。
これで吉田はマスコミや学界で批判された。この年の流行語となった「曲学阿世」は明らかに暴言だが、今振り返ると、東西冷戦が強まる当時の状況の中で全面講和は不可能に近く、日本の早期独立と経済回復を考えれば、自由と民主主義の西側陣営各国との講和が現実的で適切な選択だったのは確かだろう。
長谷部教授は「集団的自衛権の行使に踏み出した以上、イラク戦争など日本から見ておかしな軍事行動でも、アメリカに付き合わざるをえなくなる。アメリカは、国際法上の諸原則に忠実に行動するとは限らない国家だ」と指摘する。その通りである。安倍政権、あるいは日本政府は米国の強引で自己中心的な世界戦略に巻き込まれないよう、そして軍事的にも引きずり込まれないように注意することを片時も怠ってはならない。
だが、相対的に言えば、アメリカは世界の中で国際法を守る度合いの高い国である。言うまでもなく軍事外交力、経済力も世界最大であり、自由と民主主義を尊重する国でもある。
「戦争にひきずり込まれる」リスクを巧にかわしながら、安保法制を整備しつつ日米同盟を維持して行くのが現状では、日本のとるべき道ではないか。それを見据えない憲法論は曲学阿世とは言わないが、現実味が薄いと言わざるをえない。
編集部より:この記事は井本省吾氏のブログ「鎌倉橋残日録 ~ 井本省吾のOB記者日誌」2015年6月10日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった井本氏に感謝いたします。オリジナル原稿を読みたい方は鎌倉橋残日録 ~ 井本省吾のOB記者日誌をご覧ください。