確かに、日本列島は揺れている --- 長谷川 良

産経新聞電子版を読んでいると、「鳴動する大地、各地で頻繁する噴火・地震」というタイトルの記事があった。それによると、「鹿児島県屋久島町の口永良部島・新岳は噴火を続け、浅間山(群馬、長野県)では小規模な噴火があり、箱根山は噴火警報が出されている」という。そして先日、小笠原で震度5強を記録したばかりだ。産経新聞が指摘するように、日本列島は揺れ続けている。

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▲揺れる日本列島

ご無沙汰しているとはいえ、日本は当方の母国だ。その日本列島がこんなに揺れ続けているとは考えていなかった、というより、ニュースとして聞いて知っていたが、それが統合されて「日本列島が……」といった認識には至っていなかった、というべきかもしれない。

確かに、日本列島は揺れている。その原因について、地震学者からさまざまなシナリオを既に聞いているが、心の隅にある不安は容易には消滅しないのではないか。なぜならば、火山の噴火や地震はやはり天災であり、人知で完全には掌握できない現象だからだ。

世界の地震学者たちはいつ地震が起きるか正確に予知できないことを知っている。しかし、それゆえに私たちが「不安」を感じるのではないだろう。何月何日にM5程度の地震が発生しますといった予知が可能になったとしても、私たちの不安は解消されないのではないか。なぜならば、地震や火山噴火といった天災は人間の理解を超えたエネルギーを放出し、その影響は莫大だからだ。予知が可能となったとしても、巨大なエネルギーの前に余り意味がない。天災は回避するのではなく、それを潔く甘受する以外に他の選択が本来ないのだ。

キリスト教社会の欧米諸国の国民は幸いだ。天災が起きれば、神に怒りをぶつけることができる。哲学者ならば、「神の不在」を糾弾できるだろう。しかし、地震・火山国の日本では神は久しく不在だ。不在の神を批判する国民は皆無だろう。それでは、恨み、つらみをぶつける神がいない日本人は地震や噴火によってもたらされた破壊、痛みをどのように止揚してきたのだろうか。

ひょっとしたら、日本人は天災の前に諦観し、宿命として甘受してきたのかもしれない。しかし、頻繁に襲ってくる天災で日本民族が自暴自棄となったり、無気力な国民性となったとは聞かない。逆だ。荒廃した大地から這い上がり、崩れた家屋を再建し、土地や山を切り広げていったのだ。その原動力はどこからきたのか。

当方はしばらく考えた。答えは天災から来るのではないかという結論となった。すなわち、天災は破壊だけではなく、未来に向けた建設的なエネルギーも同時に放出するのではないか。日本人は天災の膨大なエネルギーの中から新しく建設するために必要なエネルギーも同時に受け取ってきたのではないだろうか。

終戦後、日本国民は荒廃した社会から立ち上がり、国を再建していった。決して生易しいことではなかったはずだ。奇跡だ。日本民族の勤勉性、優秀性は手助けとなったが、それが主要な要因ではないだろう。ましてや、日米安保条約のお蔭でもない。
天災大国の日本民族が歴史を通じて知らず知らずに体得していった森羅万象の背後にある存在への“畏敬心”と生かされていることへの“感謝”があったからではないか。それが、敗戦という人災の時にも役立ったのだ。

ちょっと飛躍するが、「神から多く赦された人であればあるほど、その人は多く愛する」という内容の聖句が新約聖書の「ルカによる福音書」にある。常に天災に遭遇してきた日本民族はそれだけ生かされていることへの感謝の心が他の民族より深いのではないか。

日本列島は揺れている。われわれは天災に備えなければならないが、過剰な不安や恐れを抱く必要はない。日本国民が歴史を通じて培ってきた畏敬心と感謝する心を失わない限り、天災は良きエネルギーをわれわれに与えてくれるはずだからだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年6月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。