安倍総理の70年談話に望むこと(1) --- 堀 義人

「侵略」への言及は必要か?

安倍晋三首相による戦後70年談話を考える「21世紀構想懇談会」の北岡伸一座長代理(国際大学学長)は3月のシンポジウムで、「安倍さんに(日本は)侵略したと言ってほしい」と発言された。その後、開催された懇談会後の記者会見でも同様の発言をされた。そして6月25日の第6回会合の後にも、「侵略をしたという事実は、表現はともかく(談話に)書くのではないか」と、個人的な見解を座長代理の立場で示された。

だが、懇談会の場において、侵略に関する討議はあったが、公開された議事録が示す通り、見解は割れているのが実情だ。参考までに、懇談会メンバーである僕の発言内容を掲載する。

北岡座長代理が『侵略』という言葉を用いたことが報道されていたが、それを50年談話に用い、60年談話に用い、さらに70年談話でも用いるべきなのだろうか。さらに、100年談話、200年談話といつまでも用いるべきであるのかという点についても考える必要があろう。

そもそも、こうした歴史観(歴史認識)は一人ひとりが、それぞれに持つものだと考える。国家が「歴史観はこうである」と断定することが良いことかどうかについても、一国民として疑問が残るところだ。歴史観は後世の歴史家が決めることなのか、それぞれが持つべきものなのか、国家が断定するべきなのか、こうした点についても考える必要があろう。

奥脇直也(明治大学法科大学院)教授が「侵略の定義は定まっておらず、曖昧である」とおっしゃっていた。北岡座長代理の歴史観はよくわかったが、歴史観については、この委員会の歴史家の間でも考え方が異なっている。定義が曖昧で、歴史家の中で異論があるものを、どういう形で談話に盛り込んでいくべきなのだろうか?そういう状況であれば、そもそもジャジメンタル(断定的)な(侵略という)言葉はなるべく排除して、歴史的な事実関係を基に、誠実な反省をした形で談話を組み立てていくのがよいと思う。

このように国際法学者である奥脇教授は「侵略の定義は曖昧である」とおっしゃった。当然、懇談会でも異論が多く出ていた。であるならば、その曖昧なもの且つコンセンサスを得ていない内容を安倍首相の談話に盛り込むべきかは、異論が残るところだ。

あと1カ月強で談話がまとまることになる。5月の国際交流会議「アジアの未来」におけるゴー・チョクトン前シンガポール首相の発言が一つのヒントになる。「運転をするときは、バックミラーで後ろを見ることもあるが、前に集中することが最も重要だ」。ぜひ前を向いて、日本人が奮いたち、世界各国の人々が共感する未来志向の談話を発表できたら、幸いだと思う。

追記:東京大学名誉教授の伊藤隆氏による「歴史通」2015年5月号の記事「北岡君、日本を侵略国家にする気かね」は、タイトルには賛同しかねるが、内容は読み応えがあるので、参考として紹介する。

2015年6月26日
グロービス経営大学院 学長
堀義人


編集部より:この記事は堀義人氏のブログ「起業家の冒言/風景」2015年7月3日の記事より転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は、「起業家の冒言/風景」をご覧ください。