作家の百田尚樹氏が週刊新潮7月9日号に<私を「言論弾圧」男に仕立てあげた大マスコミに告ぐ>と題して、自民党有志議員の勉強会での経緯を書いている。
同勉強会「文化芸術懇話会」は私的な集まりで、公的なものではない。当日は報道陣が来ていたが、主催者は「取材はなしと伝えてある。書くのはルール違反」ということだった。だから、自由に話したのだという。
ただ、廊下にいる記者たちが耳をそばだてて聞いていた。「取材はしないルールだ」と言われても問題があれば取り上げる。記者のそうした姿勢は正しい。読者本位で考えるべきだからだ。しかし、それだけの価値ある情報だったかどうかと言うと、たぶんに疑問がある。
講演の後、ある議員が沖縄の「沖縄タイムス」と「琉球新報」を批判した後、意見を求めてきたので、百田氏は「沖縄の2紙はつぶさなあかんのですけども」と最後の「ですけども」を柔らかくぼかすように、つまり冗談ぽく語った。その証拠に会場ではどっと笑いが起きたという。
雰囲気は良くわかる。記者OBの一人として言えば、この種の話はまともに取り上げるべきではない。取り上げた記者とその上司であるデスクの感覚はどうかしている。はっきり言って見識がない。
いや、実は冗談とわかっていたのだろう。少しでも付け入るスキを見せたら「揚げ足取り」をしてやろううと思っていたに違いない。現政権を貶め、支持率を下げてやろうと、手段を選ばずに。卑劣である。記者として新聞として品位に欠けるとしか言いようがない。
こうした例は今に始まったことではない。昔からたくさんあった。女性を「子供を産む機械」とたとえた柳澤伯夫厚生労働大臣(当時)をあげつらった記事など典型的だろう。
機械が生産を止めれば製品はできない。だから、少子化を防ぐには「子供を産む機械」である女性が産める環境を整備しなければ、という話だった。そういう例え話なのに、「女性を子供を産む機械とはなんだ、女性蔑視だ」と論難する。メディアや野党には余裕もユーモアもない。
いや、たとえ話であることはわかっていたのだろう。でも、「しめた、これで自民党の閣僚をやり込めることができる」と一斉に批判に動き出したのに違いない。俗耳に入る話を大々的に報ずるイエローペーパーの感覚である。だから、品格に欠けるというのだ。クオリティペーパーが聞いてあきれる。
今回も同じことだろう。作家が冗談で、それも公の場ではなく、議員の私的な勉強会で言ったことを取り上げて、「言論弾圧だ!」と糾弾するなど、それこそ百田氏という作家の言論の自由を束縛するものではないか。
百歩譲って冗談でないとしても、その発言は自由だ。百田氏は「新聞をつぶすか否か」は読者が決めることと考えている。百田氏が「沖縄2紙のどこが悪いのか」を具体的に指摘するのに呼応して、「確かに2紙は問題だな。もう読むのはやめよう」と思う読者が増え、販売部数が減って経営が行き詰るという形だ。これこそ表現の自由と購買の自由を尊重する自由社会のあり方である。言論弾圧のかけらもない。
部数を減らしたくなかったら、読者の求めるニュースを豊富に取り上げ、懸命に自分の新聞の記事の正確さと主張の正しさを主張すればいい。
百田氏は「私が(自民党の内輪の私的な勉強会ではなく)ラジオやテレビで不特定多数の人向けに発言したのなら非難されても仕方がないが」と言っている。
だが、私はそうは思わない。公に沖縄の新聞2紙を批判し、読者に不買を進めたとしても、それが言論であるかぎり許されるはずだ。
自民党議員の「沖縄2紙を懲らしめろ、スポンサーに圧力をかけて広告を止めさせよう」という発言は品がないが、それでも言論であるかぎり許されると思う。
許されないのは言論の自由を奪うような規制や条例を敷くように動くことだ。また、議員の立場を利用して広告を出さないようにスポンサーに圧力をかけるのもルール違反だ。広告を出せば、その企業の営業が難しくなるような規制をかけるといった圧力である。
ただ、企業がくだんの新聞が気に入らないと思ったとしたら、広告を出さないのはその会社の自由だろう。
新聞やテレビ局の方も気に入らない評論家や作家、学者の意見を取り上げない自由があり、実際そうしている。それと同じことである。
インターネットの普及で新聞やテレビの広告は構造的に減少傾向にある。国会議員が「偏向報道をする新聞に広告を出させないよう圧力をかけよう」と言った程度で、「言論弾圧だ」などと騒ぐのは、そうした動きに加速がつくのを恐れているのではあるまいか。穿ちすぎだろうか。