作家の百田尚樹氏が先月25日、自民党若手議員主催の勉強会で、「沖縄の二つの新聞は潰さないといけない」と発言したということで、本人ばかりか同氏を勉強会に招いた自民党関係者に対しても批判が出ている。そして批判の矛先はここにきて安倍晋三首相にまで広がり、首相自身が、「言論の自由を侵すことは許されない」と語り、作家の発言騒動の沈静化に乗り出している。
アルプスの小国オーストリアに住み、正直言って問題の主役、作家の百田さんについて、当方はその著書をまだ読む機会がないので、本来何も言えない立場だが、テーマが「言論の自由」ということなので、当方の考えを少しまとめてみたい。
「言論の自由」は憲法でも保障されている基本的人権の一つだ。ただし、「報道の自由」については、報道が国民を誤導し、ひいては国家をミスリードすることもあることを私たちは学んできた。
最近では、朝日新聞の慰安婦誤報の怖さを体験したばかりだ。「旧日本軍が慰安婦を強制的に性奴隷とした」といった類の報道が朝日新聞を中心に久しく流れた。その朝日の慰安婦誤報は米紙「ニューヨーク・タイムズ」に頻繁に引用され、「日本人は性奴隷をした民族だ」といった論調がアルプスの小国オーストリアのメディアまで広がっていった。当方はウィーンに35年余り住んでいるが、慰安婦報道では朝日の誤報に悩まされてきた一人だ。
すなわち、朝日新聞の慰安婦報道は日本に住む国民だけではなく、世界に住む日本人にも消すことができない汚名を着せてきた。その朝日新聞を含む日本のメディアが現在、私人の一作家の「沖縄の2紙を潰せ」といった批判を問題視し、それを政権批判に利用しているのだ。
もちろん、同氏を招いた自民党青年部議員の発言は看過できない。その集まりが公なものではなく、私的な勉強会だったといっても与党の看板を背負う党員は公人だ。一私人の作家とは明らかに異なる。だから、自民党本部が勉強会を主催した党責任者、木原稔青年局長党員を処罰したのは正しいだろう。
しかし、作家発言の報道を追っていると、首をかしげざるを得ないことがある。「報道の自由」を守れといった論調が主流を占め、メディアの「責任」問題を追及する声がほとんど聞かれないことだ。メディアが報道しているのだから自身の問題は後回しに、というのかもしれないが、「報道の自由」が日本社会にいい影響だけではなく、日本の国益すら危険にさらすケースが増えていること、それに対する一部国民のメディアへの憤りが高まっていることなどを無視していることだ。
非情な性犯罪が発生する度に、メディアは犯人の犯行に至った背景を詳細に報道するが、メディア関係者が連日、いかがわしい性情報を垂れ流してきた責任を見落としている。性犯罪を助長する一方、犯罪が生じると、容疑者を批判し、審判する。これはおかしい。「報道の責任」についてもう一度、メディア関係者は再考する必要がある。
自由は尊い。自由を勝ち取るために多くの先人が血を流してきた。それだけに、その自由を大切に行使する義務がわれわれメディア関係者にはあるはずだ。繰り返すが、自由を求める前にやはりその責任を指摘しなければ不十分だ。
朝日新聞の慰安婦報道をもう一度検証し、間違った報道が国家、国民の名誉すら傷つけてしまうことを想起し、メディア関係者は「報道の自由」に対し謙虚となるべきだろう。百田尚樹氏の発言問題の議論もメディアの責任論に言及してこそ実りある議論となるのではないか。もう少し、突っ込んで言及すれば、「沖縄の二つの新聞(「琉球新報」と「沖縄タイムス」)は潰さないといけない」といった同氏の発言内容を検証するのもメディアの役割ではないか。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年7月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。