韓国よ、失った「主体意識」取り戻せ --- 長谷川 良

アゴラ

「明治日本の産業革命遺産」が国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界文化遺産登録に決定した。韓国聯合ニュースは6日、「日韓両国の間で『強制労働』について意見の対立があったが、最終的には日本側が朝鮮人を強制労働させたことを認めた」と速報で報じた。それに対し、岸田文雄外相は5日、「該当施設で朝鮮人強制労働があったことを認めたわけではない」(中央日報日本語電子版)と弁明し、韓国側の解釈を否定した。ただし、日本側の説明は少々苦しい。

世界遺産委員会に出席した佐藤大使は、「1940年代にいくつかの施設で、意思に反して連れてこられ、厳しい環境の下で働かされた多くの韓国人らがいたことについて、理解できるような措置を講じていく」(同上)と説明したというのだ。同大使の発言をそのまま受け取るとすれば、日本側が「強制労働」を認めたという韓国側の解釈は正しいと言わざるを得ない。

ここでは、日本大使の発言内容の解釈について、議論するつもりはない。韓国側がなぜ「強制」という言葉に拘るのかについて少し考えたいのだ。
通常、「強制」とは、自身の意思に反して何らかの言動を強いられ、強いることを意味する。だから、慰安婦問題も労働問題も自身の意思に反して強いられた場合、問題となるが、経済的理由から従事した場合、当たり前だが、問題とならない。慰安婦の場合も経済的な理由で売春した女性たちも実際いた。
だから、韓国側は、「旧日本軍が管理して強制的に慰安婦とした」と主張し、日本で炭鉱などに従事した多数の朝鮮人も自身の意思に反して朝鮮半島から連れられて来られたと説明することで、初めて日本側を批判できるわけだ。「強制」がなければ、批判できない。

一方、日本側は慰安婦問題でも軍の直接関与や強制はなかったという立場だ。すなわち、多くの慰安婦は自身の意思に反して売春を強いられたのではなく、業者が主導的に管理し、女性たちは経済的恩恵を受けていたという。強制労働も日本に出稼ぎにきた労働者たちが主だったという立場だ。
事実は日韓両国の主張の中間にあるのではないか。慰安婦の中にも日本の官憲に強制されたケースもあっただろうし、炭鉱労働者も自身の意思に反して強制されたケースもあっただろう。

当方がここで問題とする点は、韓国人が常に“強制的”という形容詞をつけて日本側を批判するその思考パターンだ。全て悪いのは日本側であり、彼らはわれわれを強制的に慰安婦とし、労働を強いてきたと、日本を批判してきた。極端な場合、1件でもそのような「強制」の痕跡が見つかれば、日本は強制的に韓国女性を慰安婦とし、若者たちを強制的に日本に連れて行ったと強弁してきたわけだ。

問題は次のステップだ。「強制された」のだから、われわれ側には責任がないという論理が出てくるのだ。「強制された」は責任逃れのメンタリティーを助長していく結果となる。責任逃れは、慰安婦問題や強制労働問題だけに見られるのではなく、その後、さまざまな社会現象の中にも見られる。昨年4月16日、仁川から済州島に向かっていた旅客船「セウォル号」の沈没で約300人が犠牲となるという大事故が起きた時も、救援活動よりも船舶会社批判、ひいては政府批判でもちきりとなった。MERS(中東呼吸器症候群)では、感染を防ぐことが出来なかった病院や行政機関、ひいては大統領府にまで批判の矢は飛んできた。不祥事が生じれば、即その責任者を見つけ出して批判する一方、自身は責任を担わない。過去の歴史問題では全てが日本の責任であり、全てのネガティブな出来事は相手、政府の責任だという思考パターンだ。

その韓国人の歴史観を当方は「受動史」と呼んでいる。強制的に大国に属国化され、ある時は併合されるなどの苦難を味わってきた韓民族に決定的に欠けているのは主体意識だ。韓国の同胞である北朝鮮が主体思想を標榜するのは決して偶然ではない。独裁政権の北側は、民族が失ってしまった本来の主体意識(オーナーシップ)の復興を掲げ、国体を構築していったわけだ。不幸だったことは、北が共産主義思想の影響下で主体国家を建設していったことだ。

韓国が植民地時代の問題に固執し、日本を批判し、責任を日本側に追いやっていく思考を続けていくと、韓国民は益々主体性を失っていく危険性がある。全てを受動的に思考するパターンからは未来に責任を担う人物が生まれてこない。「強制された」のではなく、「自主的に決定した」と堂々と語れる人物の育成のためにも、戦後70年を迎えた今日、「受動史」を閉じるべきだろう。韓国民族は真のオーナー意識を取り戻すべきだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年7月8日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。