日本人が交渉下手な理由

私は最近海外の顧客やパートナーの幹部と話す機会の方が日本企業の幹部と話す機会よりも増えた。その時にいつも感じるのが「リズム感の相違」であるという事をこれまでも何度か申し上げてきたと思う。総じて日本人は「内向き(社内事情を真っ先に考える)」で「後向き(先ずネガティブな見方から入る)」だ。

このような日本人の特性は、ビジネスの世界では勿論大きなマイナスだ。日本人には折角「真面目(自らの義務に忠実)」「勤勉(自らを犠牲にして働く)」「完璧を期す(細部に至るまで手を抜かない)」「約束を守る(品質や納期に対して誠実)」等々の、他の民族にはなかなか真似のできない美点があるのに、決定権限者のこのような特性がそれを台無しにしてしまっている。

このままでは、日本人の大多数は、高給を取る外国人の「上級幹部」の下で黙々と日常の仕事をこなす「下級幹部」の集団に成り下がってしまうのではないかと危惧する。このような「下級幹部」の仕事は、将来は概ねコンピュータに代替される運命にあるから、そうなると多くの人たちが職を失い、最下層の集団に組み込まれてしまうことになる。これはあまりに悲しい。

何故「内向き」「後向き」が悪いかといえば、「内向き」では良い交渉ができず、「後向き」では事業の拡大が出来ないからだ。

現在の産業界では二つの事が同時に起きている。一つは「国際競争の拡大(世界市場を制したものだけが生き残れる)」であり、もう一つは「変革サイクルの短縮(技術革新が次々に現在のビジネスを破綻させ、代わりに新しい事業機会を生み出す)」である。この波に乗る為には、何もかも自分で一からやろうとせず、他人がやってきたものを最大限利用し、誰よりも早く市場を掴む事が必要だ。しかし、「内向き」「後向き」ではこれはとても無理だ。

世界市場で機敏に動くためには、先ず、世界のどんなところにでも出掛けて行って、意を通じ合える「パートナー」を探し、「最高の技術」とそれを金に変える「最大の市場」を飽くことなく求めていかなければならない。そして、この為には、交渉事に長じている事がどうしても必要だ。

「内向き」である事は、そのまま自動的に「交渉事が大の苦手」である事を意味する。これは「内気だからうまく喋れない」という意味ではない。交渉にあたる人たちの目的が「自社の長期的利益」なんかではなく、「社内で辻褄を合わせる(批判を招かない)事」になってしまっている事を意味する。

交渉事で最も必要なのは、「自らは最後まで多くのオプションを持ち、相手方にはオプションを持たせない」ようにする事だが、「内向き」の人たちは「自分が属する組織が求めるもの」や「上司の意向」を絶対的なものと考える傾向が強いので、最初から広範なオプションを自ら捨ててしまっている。

交渉は「成立する」か「成立しない」かのどちらかであり、交渉の当事者がその選択権を持っていなければならないが、「内向き」の人たちは「そんな事を自らが決めるのは恐れ多い」と考え、「上司が求めているのは交渉の成立なのだから、何としても成立させなければならない」と考える。その為には悪い条件でも呑んでしまうし、後で問題を残すような「玉虫色の表現」に活路を見出そうとしてしまうのだ。

「出来れば交渉を成立させたい」のは双方とも同じだ。双方とも、実は「自分たちの要求が高すぎて相手が立ち去ってしまう」事を恐れている。要するにチキンレースなのだが、通常のチキンレースが「どちらが最後まで降りないかの度胸比べ」であるのに対し、通常の交渉事は「相手が降りてしまう恐怖にどこまで耐えられるかの度胸比べ」である。従って、このゲーム勝者になる為には、何よりも「自分より相手を恐怖させる手練」が求められる。

自分で全てが決められるなら、相手を存分に恐怖させられる。しかし、自分が相手より上司の事を気にしていると、「もし交渉が不成立に終わったらどうしよう」と、自分が真っ先に恐怖してしまう。相手には当然それは見透かされるから、これでは全く勝負にならない。

日本人は内部で話している時には総じて威勢がよく、強気の議論で盛り上がっている。そんな時に「でも相手はどう出るでしょうかねえ」等と口を挟んだら、「そんな弱気でどうするんだ。そんな事は相手の出方を見ながら考えればいい」と窘められる。しかし、内部で勇ましいことを言っていた人程、実際に交渉の場に出ると他愛もなくズルズルと後退する。相手の出方を事前に読んでおく事を怠り、それへの対応策を考えていなかったからそうなってしまうのだ。

やるべき事は単純だ。先ず「相手方の最も厳しい対応」を想定する。そして、相手がそのような姿勢で臨んできた場合に「交渉の決裂を覚悟すべき一線」を自分であらかじめ決めておくのだ。こうしておけばどんな時でもたじろがないし、相手方に大きなプレッシャーをかけられる。これが交渉事の基本中の基本だ。

交渉事には色々な「駆け引き」がつきものであり、その一方で、双方がそれぞれに自分たちの誠意を示す為の「プロトコールの交換」といった儀式もある(これが一般の人の考えている「交渉事のあり姿」である)。また、交渉の過程では、どちらからともなく、思いもかけぬような創造的な妥協案が出される事も時にはある(その時には迷う事なく柔軟に発想を転換する事が必要だ)。しかし、こういった事は、あくまで一種の「お楽しみ」と考えておけばいい事で、本質的な問題ではない。

交渉をする時には、相手方を怒らせるのは勿論良くない。しかし、まともな相手なら、「こちらがどうしても譲れない一線を譲らない」事で腹を立てなどはしない。こちらがよく勉強しておらず、基本的な問題について加減な事を言ったり、どうでもいい問題に拘って、延々と時間を費やしたり、傲慢で無礼だったりした時に腹を立てるのだ。だから、そういう事がないようにさえしておけば、それだけで良い。相手の機嫌を損ねまいと過度に神経質になれば、相手はこれを「卑屈」と受け止める。

「誠実」である事は極めて重要だが、「誠実」と「甘い妥協」は何の関係もない。どうしても断らなければならない事は「誠実に」断れば良い。

ところで、私が今回この問題をあえて取り上げたのは、「世界遺産登録に関連して日本政府の交渉担当者が韓国側に歩み寄ったやり方」があまりに情けなかったからだ。日本側の交渉当事者が「もし世界遺産登録が不調に終わったらどうしよう」と自ら恐怖して、自分から「不必要で筋の通らない妥協」をしてしまったのは明らかだ。たかが世界遺産でこのザマなのだから、「甘くて脆い日本人」(元日産ジーゼル専務の小澤四郎氏の著書の題名)の面目躍如だったとも言える。

(韓国ではこれを「外交戦の勝利」と報じ、これで膨大な額の「戦時中の徴用工への国家賠償」を日本に支払わせる可能性が出てきたと期待しているようだが、現在の日本の納税者はもうこれ以上過去の問題で外国に賠償金を支払うつもりは毛頭ないので、あまり期待しない方がよい。)

さて、このような日本人の「見るも無残な交渉下手」はどこから由来したものなのだろうか? それは、古来から日本の政治経済の主体が「農業」を基盤としており、「商業」は「士農工商」の一番下に置かれて、政治の上でも「越後屋の悪企み」のレベルでしか影響力を持ち得なかったからだと私は思っている。政治の世界で「利に聡い」商人が力を持てば、当然の事ながら万事に「交渉力」が重視されるようになる。

島国の日本では、商人も海を越えて遠い外地に出ていけば、政治も支配出来る程の大きな商売ができるのだが、その分だけ必要とする資金もリスクも大きくなる。従って、歴史上後にも先にも、これをやれたのは平清盛だけだった。しかし、彼は次第に貴族化して傲慢になり、農村を支配する地方武士たちの信認を失い、ついには日本全土の各地に蟠踞する地方武士が「御恩と奉公」で縦につながる封建制国家を日本に生みだした。

織田信長は因習に全くとらわれない人で、好奇心が極めて強く且つ短気でもかったから、もし彼自身が天下統一を果たしていたら、支倉常長のような人物を派遣するのではとても我慢できず、自分自身でイスパニアあたりまで出かけて行っていたかもしれない。そうなると、日本は全く違った国になっていただろう。

大きな期待外れは豊臣秀吉で、彼は折角稀有の成功物語を実現したのに、老いると目標を失い、急速に痴呆化した。もし彼の周辺にもう少しマシな商人たちがいたら、「キリシタン大名は日本から追放する代わりに、彼等に十分な資金を与え、武力を背景にしてでも、朝鮮半島や東南アジアの各地でキリスト教の王国を自由に建設させる(明国は大きすぎるので当面は敬遠する)」という事を、秀吉に熱心に吹き込んだかもしれない。

そうなると秀吉は、これに大きな刺激を受けて頭脳を鋭敏なままに保ち、国内ではキリスト教の影響を排除して「農業を基盤とする安定した社会」を確立する一方で、自らはキリシタン大名を駆使した海外貿易を直轄して、日本に当時の西欧にも匹敵するような未曾有の繁栄をもたらす事ができたかもしれない。そして、この中で揉まれた多くの「外向き」で「前向き」な日本人たちが、キリスト教を信奉する「華僑」ならぬ「日僑」として、アジア各地に根を張っていたかもしれない。

まあ、夢物語はこのくらいにして、現時点に立ち戻り、どうすればこれからの日本人を、もう少しでもよいから「外向き」で「前向き」に出来るかを考えてみよう。

産業革命は経済の主役を「商業」から「工業」へと転換させた。「工業」は「農業」に似ていて、「先を読んだ投資」と「忍耐強い改善の積み重ね」が成功の鍵となるから、これは日本人の特性によく合致していた。だから、明治維新の後に日本は急速に産業競争力をつけ、戦後もいち早く驚異の経済復興を成し遂げる事が出来たのだ。

しかし、ここへきて、経済の主役は「工業」から「金融」「情報産業」へと急速に移りつつある。「第二次産業」から「第三次産業」への移行だ。そして、「第三次産業」の成功の鍵は「スピードと柔軟性」であり、「工業」よりむしろ「商業」に近い。

日本人はこの転換にうまく対応しなければならない。社会全体の価値観の転換はそう簡単ではないから、明治維新の時のように、「教育」がその転換を主導すべきだ。この事については、また機会を得て具体的に論じてみたい。