青木昌彦先生を悼む --- 松井 孝司

今朝の天声人語の青木昌彦先生「追悼文」。
わが意を得たりである(青木先生の人となりについて)。
まさに、ダンディがジャケットを羽織っているような方だった。
相手が誰であっても通すべき筋は通す。
僕や、さらに年少の若手であっても傾聴すべき意見には謙虚に耳を傾けられた。
年少でも年長でも、リスペクトする人は、呼び捨てにするか、○○氏という表現のどちらかを使われることが多かった。呼び捨てはその人物へのある種の敬意としての呼び捨てである。(勿論悪意のそれもなくはなかったが)
そういう先生のもつリベラルな雰囲気を良いことに、10年ほど前のある晩、僕が主催する勉強会に先生をお招きして、『先生は何故に「姫岡玲治」としてブント運動の中核を担われたのですか?いまの先生からは想像がつかないのですが?』と、今考えればとても失礼な質問を連発する機会があった。
先生は、例によって、あのはにかんだような笑顔で、ニコニコしながら
『あの頃、時折湘南に出かけたものなのだけれど、湘南の明るい太陽のもとで、知的にあのような議論を究める風土が、当時の論壇にはあったんだよねえ』
と一瞬遠い目で答えられ、それがどこまで本音なのか、ある種の照れ隠しなのか、はたまた煙幕なのか、その真意にまでは到達できなかったことを思い出す。
RIETI(経済産業研究所)は、青木インスティテュートにするんですと、力むと、嬉しそうな笑顔で、
『「梁山泊」だよね。面白い人間をうんと集めよう』
と言っていただいて、省内外から先生がこれはと思う人材、僭越ながら僕がこの方はと思う人々も集っていただいた。
或いは、後に一部の方々からは、悪党たち(好悪両面で)の集団と思われて、先生はRIETIを去られることになったのかもしれないけれど、先生は水滸伝の梁山泊を意識しておられたと思う。
青木人脈は学界、官界、実業界、政界と多彩だが、敢えて故人をあげれば、その一人が、通産省の高鳥昭憲氏であり、今一人が大蔵省の戸矢哲朗氏だった。
この二人が相次ぐようにして若くして亡くなった時には青木先生が非常に哀しまれていたことを痛烈に思い出す。
いろんな事情で、RIETI発足直前に、参院選出馬のために役所を辞めざるを得なくなった(ある筋から圧力がかかった)私にも、笑顔で、「敵前逃亡だけど(笑)、仕方ないね、民主党には君が必要だと思うよ、頑張りなさい」と励まされた。
現役政治家では、与謝野馨氏を敬愛しておられて、それも青木先生らしかった。
先生のことを考えると、いろんな思い出が、連なって出て来て、とどまるところを知らない。
涙なんぞ流していたら、天上から、「松井さんらしくないね、それより最近、君は一体何を仕掛けてるの?」と、例の笑顔で、叱られそうである。