いじめ事件の処理が学校で難しい理由 --- 天野 信夫

「子どもが、一定の人間関係のある者から心理的・物理的攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」。2007年に改定された「いじめ」の定義です。

「いじめ」か否かの判断は、いじめられた子どもの立場や気持ちに寄り添って行うよう徹底されています。つまり、いじめられている本人が「いじめられている」と受け取れば、それは「いじめ」とみなされるわけです。それくらいにした方が、被害者のカバーやフォローが徹底できるわけです。

「いじめられる側にも多少問題がある」という見方は、少なくとも学校現場では排除されました。この定義と方針は、やむを得ないこととは言え、場合によっては実態との乖離を生み、加害者を指導する学校の立場に混乱をもたらしました。

加害者は発達途上の子どもであり、学校はその子どもを教育する場であるという前提があります。

加害者の人権も守らなければならないという学校の立場を、この前提が補強しています。学校がこの立場に立てば、学校による徹底的な調査と公表は難しくなります。こうして学校は、事実とその公表を求める被害者側、メディアそして世間からの厳しい責任追及を受けながら、併せて加害者側との難しい折衝にも多くのエネルギーを割かなければならなくなりました。

学校はいじめについて子どもから聞き取りをしたりアンケートを取ったりします。子どもの言うことや書くことには、正しいものと正しくないものとが混じっているという認識が必要です。中には伝聞に過ぎないものや、誇張や無責任な面白半分のものもあります。子どもの言い分を純粋化し過ぎず、事実として確認されたものとそうでないものとをしっかりと区別する手順が必要です。

メディアは子どもが言った(書いた)象徴的な言葉を取り上げて、衝撃的な記事にすることを好みます。結果として、伝聞や誇張や無責任に過ぎないことがあたかも事実として流布し、混乱が増幅します。警察や専門家集団が乗り出しても実態解明に数ヶ月かかる事件を、何の権限もない学校が単独で処理するのにはそもそも無理があります。

表には出てこない(出てきにくい)部分にも目を向ける必要があります。被害者と加害者双方の家庭的背景(家庭環境や生育歴など)、被害者と加害者双方の性向(性格の偏りや病的傾向など)。学校がなかなか公表できないこうしたものが、いじめの裏側で複雑に絡んでいる場合があります。

いじめられる子の、とりわけ自殺に至るほどの子どもの孤独感や不安感は計り知れません。その一方で、いじめっ子にも強い不安が背景にあります。他人をいじめないではいられない子どもの抱える不安、他人をいじめることに満足と快感を覚える子どもの病根、これも計り知れません。

座標軸が明確ではない社会の中で、大人たちの将来への不安が増大しています。学校は社会の縮図です。不安や心の病を抱える子どもも激増しています。日常の校務に既にして疲弊しきっている教師は、不安と心の病を抱えた保護者にも対応しなければなりません。子どものみならずその保護者や教師へも、メンタル面のサポート体制を今以上に強化させる必要があると思います。

いじめ事件の処理が学校で難しい理由のいくつかを挙げましたが、「できない理由の大天才」になってはいけません。そもそもいじめがない学校、いじめはあってもそれが事件にまで発展しないよう手が打てる学校、不幸にしていじめ事件が発生してもそれをきちんと事後処理できる学校、こうした学校もあるわけですから、学校の責任が常に問われるのは当然のことです。

いじめ事件で学校がもっとも苦慮するのは、実は加害者側への対応の難しさです。

とは言え、悪質ないじめ事件が発生した場合には積極的に事件化して、子どもの加害行為についても教育の場だからといって特別扱いしないことが大切です。そして毅然と対応した学校を、教育の放棄などと批判しないことです。できれば司法の場で、学校や教育委員会の不手際も含め事実関係をしっかりと解明し、いじめを生む背景をも含めて認識理解する必要があります。

岩手県で、いじめ被害を訴えていた中学2年男子生徒が自殺しました。

個々の事情は様々ですが、一般的に学校が置かれている難しい立場の一部を説明して学校の味方を試みました。もっとも、味方をすると言っても私のブログは読者が少ないので、何の足しにもなりませんが。

天野 信夫
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