「正しい歴史認識」とは何か?

安倍首相の70年談話についての「当初の懸念」は減少しつつあるように思える。

「当初の懸念」とは、「過去の日本が実際以上の悪者にされてきた現実に頭にきている人たち」の声に押されて、安倍首相が「過去の日本の行いを一部肯定するような勇ましい事」を言い、これが中国・韓国との軋轢を拡大、更には欧米からも批判されて、日本の国際的な立場が悪くなり、これが日本の経済と安全保障にもマイナスとなるという事だったのだが、安倍首相も損得の計算はちゃんと出来る人のようなので、現時点ではこの可能性は少ないと見る人が多い。

「侵略」や「植民地支配」という言葉は恐らく談話の中に入るだろうし、「痛切な反省」とか「深い悔悟」とかいう言葉も入るだろう。あらためて「謝罪」するかどうかはまだ分からないが、私はどちらでも良いと思っている。あらためて「謝罪」をしなければ、中国や韓国や日本国内の一部のジャーナリスト等は、ここぞとばかりこの事を批判するかもしれないが、それについては、特にコメントする必要はない。

談話は「戦前・戦中」「戦後の70年間」「これから」の三段階に分けて語られるようだから、「戦前・戦中に日本が行った事は、深く反省し悔悟すべき事であり、被害を受けた人たちに対しては心から『謝罪』せねばならない事であった」とし、「従って、戦後70年にわたり、我が国はあらゆる機会に『謝罪』を行い、必要と思われる『賠償』にも応じてきた」とすればそれで十分だと思う。

更に、「悔やんでも悔やみきれぬ愚かな戦争の為に、我が国は完膚なきまでに国土を破壊され、全国民が飢える悲惨な極限状況にまで突き落とされたが、幸いにも諸外国の温かい支援もあり、国民の必死の努力によって、現在の経済的な安定がもたらされ、平和な毎日が享受出来るようになった」とし、「従って、この恩義に報いる為にも、今後の我が国は、平和を愛する諸外国と手を携えて、世界の恒久平和の為に積極的な貢献を行っていきたい」と結べばよい。

しかし、対外的にはこれで良いかもしれないが、国民に対してはこれでは抽象的過ぎるから、首相は70周年談話とは別に、どこかの時点で自らの「過去の歴史認識」を明確にすべきだ。首相は、これまでの言動から、とかく「戦前・戦中を懐かしむ傾向がある」と思われているから、そうしないと「もしかしたら誤解かもしれないそういう評価」が定着してしまう。

因みに、私がもし首相なら、「先ずは事実関係についての関係者全員の一致した認識が重要である」事を強調した上で、広く国民に対して下記のような「自らの歴史認識(事実関係の確認)」について語り、それに対して異論がある人からは、真摯にどこが間違っているかを聞くだろう。


250年もの長きにわたって徳川幕府が国を閉ざして太平の世を謳歌している間に、欧米諸国では産業革命が政治経済に抜本的な変化をもたらし、英国をはじめとする各国は、それまでとは格段の経済力と軍事力を手中に納めるに至っていた。これらの諸国は、市場を求めて、アジア、アフリカ、中南米の諸国に進出、近代兵器に支えられた圧倒的な軍事力を背景に、そこにある国々の植民地化を競い合った。

日本に対しても各国は「開国」と「不平等条約の締結」を求めて圧力をかけた。自国の将兵の犠牲をより少なくする方向へと「支配の形を変える」事を考え始めていた英国の戦略や、国の将来を憂う下級武士たちなどの献身的な働きによって、日本は辛うじて諸外国の直接的な植民地となる事は回避できたが、「猛スピードで欧米列強の文物をとり入れ、彼等の経済力と軍事力に並ぶ力を涵養する以外に国を維持する道はない」と考えるに至った。

これは、とどのつまり、欧米の力の源泉であり且つその発露の道ともなっていた「植民地の獲得競争」に、日本も遅ればせながら参加する事を決意した事に他ならない。

その間、極東でのロシアの勢力拡大を恐れた英国は、日本の利用価値に着目して同盟の可能性を模索、一方朝鮮半島がロシアの手に落ちることを特に懸念していた日本は、当時の李氏朝鮮の宗主国であった清国と戦争してこれに勝利し、先ずは「日本や清国と対等の独立国である大韓帝国」の誕生に貢献した。しかし、同国は日本よりもロシアに依存する事を望んでいた為、これをどうしても容認出来なかった日本は、その後、武力を背景とする強硬策へと進んだ。

この動きの延長線上で、日露戦争の直後に日本は強引に韓国を併合した。これは当時の朝鮮半島の主権者であった李王朝の意に反するもので、「欧米流の植民地化」と同一、或いはそれ以上に徹底した政策の実現であり、道義的には問題であったが、英国と米国を始めとする国際社会は簡単にこれを容認した。その後も「民族自決」を求めるデモなどが首都圏を中心に頻発したが、日本の総督府はその都度これを武力によって鎮圧した。

この間も清国の蚕食を企てる欧米諸国の野心は止どまるところを知らず、特に陸続きのロシアは、満州を支配下に納める企図をあからさまにした。日本は密かに「ロシアが満州を領有する事は認めるが、朝鮮半島には手を出さない事を確約する」という妥協案を示したが、皇帝の側近が朝鮮北部の森林利権を既に手中に収めていたロシアはこれに応じず、遂に日本は、「とても身の丈に合わない」と考えられていた「日露戦争」を決意する。

開戦してみると日本軍の士気と練度はロシア軍を凌駕した。旅順港のロシア海軍は後背地からの砲撃で壊滅、遠くバルト海から進撃してきたバルチック艦隊も日本海海戦で全滅して、日本海の制海権は日本が抑えた。また、何度かの陸上での会戦においても、日本軍がことごとく勝利した。しかし、ロシア側には、「更に大陸の奥深くまで日本軍を誘い込み、戦線が伸びきったところでこれを壊滅させる」という伝統的な戦略が温存されていたのに対し、日本の財政は既に破綻寸前にあり、戦争を継続する能力は尽きつつあった。

この状況を見ていた米国はポーツマスでの両国の講和会議を斡旋、結果として「日露両軍は満州より撤退、満州全土は清国に帰属するものとし、清国は全ての国に同じ機会を与える形で市場を開放する」という事を骨子とする条約が締結された。

しかし、この条約によって日本が満州の地でロシアより得たものは、「遼東半島の租借権」と「南満州鉄道の運営権」のみであった為、戦争に完勝したと信じていた日本国民は「欧米諸国は不公正、日本政府は弱腰」と激昂、居留民保護の目的で満州に駐留した陸軍部隊(関東軍)は、「8万人を超える戦没者の英霊を慰める為にも、満州での権益は日本が独占しなければならない」と考え、「講和条約の取り決め」も「本国政府の意向」も一切無視して、満州における自国の権益の拡大に邁進するに至った。

この間、中国では、民族意識が徐々に目覚め、孫文に率いられた辛亥革命が成功、清朝は滅亡して中華民国が建国されていたが、満州を含む各地にはそれぞれに独立した支配力を持った大小の軍閥が蟠踞していた。満州に駐留した日本軍(関東軍)は、当初は現地に勢力を張る軍閥の総帥であった張作霖を利用しようとするが、これが意のままにならないと知ると彼を爆殺、清朝の最後の皇帝であった溥儀を擁立して「日本の傀儡である満州帝国」を建国、これを非難した国際連盟からは席を蹴って脱退した。

それに先んじて、欧州で勃発した第一次世界大戦で漁夫の利を得た日本は、欧米諸国にアジアを顧みる余裕がなかったのを奇貨として、中華民国政府に21ヶ条の要求を突きつけてこれを飲ませていたが、満州国建国後は、このような「中国における利権の飽くなき追求」に、更に歯止めが効かなくなった。

特に関東軍は、蒋介石が指揮する中華民国軍を軽侮し、「中国本土の拠点を一撃すれば相手は屈服する」と踏んで、本国政府の意に反して次々に戦線を拡大した。しかし、蒋介石は屈せず、中国共産党(八路軍)が組織した民衆レベルでの抗日も日毎に勢いを増して、日本は「点と線」を抑えるだけの泥沼の長期戦(その実態は誰の目から見ても明白な侵略戦争)へと、自らを追い込む結果を招いた。

この間、欧州では、ドイツとイタリアでファシストが政権を握り、国民の熱狂的な支持を受けていた。「中華民国を支援する米英との友好関係の修復はもはや不可能である」との判断に至りつつあった日本政府は、彼等との三国同盟の締結に活路を求め、ここに米英との戦争が早晩不可避となる素地が作られた。

欧州戦線でのドイツ軍の破竹の進撃を横目に見ながら、日本軍は既に親独政府が成立していたフランスの植民地だったベトナムに進駐して、米英からの蒋介石軍に対する支援物資の輸送を止めようと目論んだが、これが「対日石油輸出の全面禁止」という米国の報復措置を招いた。

「米国からの石油の供給が止まれば日本海軍は早晩戦闘能力を失う」事は明白だったので、ここへ来て日本も対米関係の修復を真剣に模索するに至ったが、対独宣戦布告を国民に認めさせるきっかけを求めていた米国政府は、むしろ日本を追い詰めて米国に宣戦を布告させる方策を考えていた節があり、中国からの全日本軍の即時無条件撤退を求める「ハル・ノート」を突きつけた。

日本政府の中には「物量が全てを決める近代戦で米国に勝てる見込みはない」との判断から、これを受諾せざるを得ないと考える人たちもいたが、東条陸相は「そんな事をしたら日中戦争で死んだ20万人の英霊に報いる事ができない」として、あくまでこれに反対、また「物量における劣勢は精神力(大和魂)で補える」として、遂に日本は真珠湾を奇襲攻撃し、米英に対して宣戦を布告するに至った。

この間、明治憲法で「内閣から独立した統帥権を持つ」とされていた天皇は、最後まで平和を希求していたが、「原爆投下」後にその惨状に強い衝撃を受け、「ポツダム宣言を受諾する」事を自ら決意するに至るまでは、軍部を抑える事は出来なかった。軍部は「いざとなれば自らの力で天皇を廃位に追い込む事も可能」と現実に考えていた節があるから、これもやむを得なかったのかもしれない。

その一方で、緒戦における日本軍の連戦連勝に興奮した一般国民は、熱病に冒されたように天皇を神格化し、合理的な思考を忘れて「神国不敗の信念」に酔い、「八紘一宇(日本の天皇が全世界を統一してその頂点に立つ)」というスローガンを呼号するまでに至った。このような状況下で、国民の殆どは軍部に対する批判を封印、平和主義者を頭から「売国奴」と決めつけるような風潮が社会に蔓延していった。

そして、軍部は、戦局が絶望的な状況になっても、なお「もう少し持ちこたえれば、何かの奇跡が起こるかもしれない」という一縷の希望を持ち、外国人から見れば「狂気」としか思えない「玉砕戦」を展開、米国などに「日本の異質性」を強く印象付けた。

「降伏はあり得ない」という考えに凝り固まった一部の将兵たち(後の靖国神社の松平宮司を含む)は、「原爆の投下」と「ソ連の参戦」という最後の駄目押しに直面してもなお「徹底抗戦」を叫び、「自らの信念の実現の為には、日本民族全体が滅亡しても構わない」という立場を変えなかった。


上記には私の偏見も若干は含まれているかもしれず、左右両翼の人たちから一部反論はあるかもしれないが、これらの人たちは何れにせよ「何等かの先入観に凝り固まっていて、柔軟な思考で物事の本質を追求する意欲と能力に欠ける人たち」故、その事については、私はあまり気にかけていない。しかし、安倍首相の歴史認識がもし上記と本質的に異なるとすれば、具体的にどこが異なるのかを、私としては是非とも知っておきたい。