いま自由・独立に思う

私は2年程前『米国は「徳のある国」か』というブログを書きました。「東京大空襲」や「沖縄戦」そして人類史上最初で最悪の無差別大量殺戮に繋がった民間人に対する2発もの国際法違反の原爆投下を日本に行った米国は、果たして「徳のある国」と言えるのでしょうか。


例えば池田信夫さんは今月6日「原爆投下は必要だったのか」と題したブログの中で、米国大統領「トルーマンがスターリンの署名を拒否してポツダム宣言を出し、ソ連参戦の前に原爆を投下したのは、その前に日本を降伏させてアメリカが占領統治の主導権を握るためだった」等の指摘を行われております。

今「日本に原爆を投下した米政府の判断は正しいか、誤りか」と米国民に問うてみれば、『四十四歳以下の年齢層で「誤った判断だった」と答えた人が「正しい判断」と回答した人より多いという結果が出た』ように、圧倒的多数が「正しい」と支持する45歳以上との間でその意識差が鮮明化しています。

本来であれば米国は自らの残酷非道な行為自体をもっと真摯に反省すべきであって、私に言わせれば全く反省が出来ていないのではとすら思っています。何時の間にやら米国の腰巾着の如き様態を曝すように堕した日本という国は、日本人として怒るべきを忘れてしまっているのではというような気がします。

第二次世界大戦後にマッカーサーが行った占領政策は敗戦国日本を徹底的に弱体化させるための政策であり、マッカーサーが押し付けた現行憲法の中で戦後日本は日本人が日本人の主体性を発揮し得ない状況にさせられてきたように思います。

「イラク戦争」をに考えてみても、イラクは一貫して大量破壊兵器の保有を否定し続けていましたが、米国はそれを保有しているに違いないと一方的に決めつけて音頭を取り、英国や日本等の国々がそれに乗っかる形でイラクに攻撃を仕掛けることになりました。

事実イラクが大量破壊兵器を保有していればまだしも、結局それを保有していなかったというわけで、その結果大変な数の人の血が流れ続けあれだけ国が乱れるようになり、更には大きな宗教対立が起こって内乱が多発するような現況を生じさせました。此の最大の責任は、米国以外の一体どの国に求められると言えるのでしょうか。

上記惨劇はブッシュ政権により起こされたものですが、之に限らず米国が此の世界に対し様々やってきた歴史的事象によって一体誰が幸せになったのか、何が良くなったのかに関して我々は冷静に考えてみるべきです。

米国は近年になって漸く広島・長崎を訪れる首脳陣が出てきたというだけで、彼の国は「徳のある国」たるべく凄惨な歴史的事実を直視し、まだまだ大いに反省すべきだと思うものであります。

戦後70年「平和国家」としての日本を見続けてくる中で私がつくづく感じるのは、日本人の多くにあって何か欧米の行いは正しく日本のそれは間違いであったかの如く、何彼に付け彼らにぺこぺこしながらその歩みを進めてきたということです。

明治維新以後、欧米同様に植民地化を進めた日本の歴史に対する私見を端的に申し上げるとすれば、日本人としてその大変な過ちに対する深い反省が求められるのは、朝日新聞の記事捏造の大罪が主因だと思われる所謂「慰安婦問題」というよりも日韓併合および満州国樹立だと私自身は考えています。

他国に攻め入ってそこに傀儡政権を樹立するのも勿論悪ではありますが、より問題視されるべきは他国に攻め入ってその日を境に東を向いて天皇陛下に御挨拶させることに始まり、日本語を強要し母国語を失わせるといった類であって、之は日本として猛省すべき歴史だと思います。

「独立と自由ほど、尊いものはない」とは、植民地時代の「ベトナム革命」の指導者ホー・チ・ミンの言葉ですが、此の自由と独立ということを長い歴史の中で考えてみるに、之は戦いによって勝ち得られたと言い得るものです。

例えば「アメリカ独立戦争の指導者パトリック=ヘンリーがバージニアの下院で行った演説の中の言葉」に、「Give me liberty, or give me death…私に自由を与えよ、しからずんば死を与えよ」というのがあります。

「自由か死か」ということで、戦後生まれの日本人とりわけ現代の若者達は皆この自由を享受して生きられること、独立国として生きられることが当たり前でなく「ありがたい…有ることが非常に難しい」ことだと噛み締めねばなりません。

欧米諸国が如何なるやり方で被植民地の自由や物資、国家としての尊厳等を略奪してきたかはオランダ植民地時代のインドネシアの状況等々、YouTubeでも簡単に探し出し確認することが出来ます。

あるいは大英博物館に行ってみても、嘗て7つの海を支配し「英国の領土に日没することなし」と言われた時代、世界中より略奪した品々が陳列されているというだけで、欧米諸国が過去どれだけ苛烈なやり方でアジア・アフリカの民を支配し、その血を流させたかにつき我々は思うべきでありましょう。

また「民主制国家の基礎は自由である」とアリストテレスが言っていたり、ルソーが「人民の自由は、国家の健全に比例する」と述べたりもしていますが、此の自由と独立というのは一国だけでなしに我が身心においても責任を伴うものです。

国であれば自由・独立の代償という中で世界秩序の安定に向けての責任というものがあり、個人であれば自由・独立の中で人に依存したり媚び諂ったりせずに自分で主体性を持って世のため人のために生きて行くという責任があるのです。

誰が何を言うまでもなく、此の自由と独立は極めて貴いことです。但し、それは片一方で簡単には獲得できない先人達の大変な努力が齎したものであること、また同時に責任というものが伴うことを、戦後70年を経た今を生きる我々は決して忘れてはなりません。

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